水泥古墳の北古墳を見学させてもらった後、私たちはその立派な民家のご主人のご厚意に甘え、場所をお借りして昼食休憩を取らせていただくことにした。総勢40名の一行があちらこちらに散らばり、余裕を持って昼食を取ることができるような、それはそれは広いお庭である。。この敷地内の一角に娘さんがその敷地内でカフェを営んでいらっしゃる部屋もあり、この日はたまたまお休みであったので、そのお店の方まで開放していただいた。
健王(健皇子)は天智天皇の皇子であり、斉明天皇の孫にあたる。『日本書紀』天智天皇7年2月には、以下のような記述がある。
古人大兄皇子の女、倭姫王を立てて皇后となす。遂に四嬪を納る。蘇我山田石川麻呂大臣に女有り、遠智娘と曰ふ。……一男二女を生む。其の一を大田皇女と曰し、其の二を鸕野皇女うののささらのひめみこ/後の持統天皇と曰す……其の三を建皇子と曰す。唖にして語こと能はず。
話すことができなかったという建皇子。彼について、同じく『日本書紀』斉明天皇4年には、その早すぎる薨去の記事がある。
五月、皇孫建王年八歲にして薨せましぬ。今城の谷の上、殯を起てて收む。天皇、本より皇孫の有順を以ちて器重めたまふ。故れ哀みに忍ぶず、傷慟ひたまふこと極めて甚し。群臣に詔して曰はく、萬歲千秋の後に、要ず朕が陵に合せ葬れとのたまふ。廼ち作歌して曰はく、
今城なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か歎かむ
射ゆ鹿猪を つなぐ川辺の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに
飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
言葉を発せぬ孫であったが、まことに素直(有順)であったという。そんな孫を、斉明女帝は殊の外慈しんだ。幼く不憫な孫の死は、老女帝の心にひどくこたえたに違いない。日本書紀の記述は、その手放しの哀しみようを伝える。本来なら冷徹であるべき史書が、その哀哀たる思いを書き記さずにはいられなかったのだ。
そして女帝の哀しみはとどまることを知らない。同年10月、斉明女帝は紀州白浜(紀の温湯)へと行幸する。その紀州へと赴く道、紀路のほとりで、女帝の思いは再び今はなき孫へと彷徨う。
冬十月の庚戌の朔にして甲子に、紀の温湯に幸ます。天皇、皇孫建王を憶ほしいでて、愴み悲泣びたまひ、乃ち口号して曰はく、
山越えて 海渡るとも おもしろき 今城のうちは 忘らゆましじ
水門の 潮のくだり 海くだり 後ろも暗れに 置きて行かむ
愛しき 我が若き子を 置きて行かむ
とのたまひき。秦大藏造萬里に勅して曰はく、斯の歌を伝へて世に忘らしむることなかれとのたまふ
女帝の、孫への深い愛が胸に迫るような逸話である。
ところで、この建皇子の母は、大化の改新の功臣である蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘であった。孫を失った老女帝の悲嘆の凄まじさは以上の通りだが、記録にはないものの、母である遠智娘の哀しみもどれほど深かったかは容易に想像できる。
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