村屋坐弥冨都比売神社 続

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前回に続く

村屋坐ムラヤニイマス弥冨都比売ミフツヒメ神社は、こんもりとした森の中の参道をつきあたりは本殿である。拝殿越しに本殿をお参りした後はちょいと横からご本殿の姿を…拝見。

三穂津姫と大物主大神の二柱が祀られていることがよくわかる造りになっている。当神社のHPには、

「延喜式」神名帳 式下郡に村屋坐弥冨都比賣神社・村屋神社・久須須美神社・服部神社が記載されており、天武天皇元年(673)壬申の乱のときに「村屋神」が22代当主 室屋喜久麿にのりうつって「わが杜の中を敵が来る。社の中つ道を防げ」と大海人皇子方の大伴連吹負将軍に軍備に対する助言をし見事勝利に導いた。

と記されているが、これは、

村屋神着祝曰「今自吾社中道 軍衆將至 故宜塞社中道 」故未經幾日 廬井造鯨軍、自中道至。時人曰、卽神所教之辭是也。軍政既訖、將軍等舉是三神教言而奏之。卽勅登進三神之品以祠焉。

村屋の神、はふりかかりて曰く、「今吾が社の中つ道より、軍衆いくさひとども至らむ。かれ、社の中つ道をふべし。」といふ。故、未だ幾日いくかを經ずして、廬井いほゐのみやつこのの鯨のいくさ、中つ道より至る。時の人曰く、「卽ち神教へたまへるみことば、是なり。」といふ。

日本書紀 天武元年七月

という記事に基づいたもの。

ということは、672年、壬申の乱の際にはすでにこの村屋坐弥冨都比売神社はあったことになる。ただ、この日本書紀の記事からもうかがえるように、この神社は中つ道に面している。

私にはそれが中つ道沿いという立地ゆえの創建にしか思えない。ということは、中つ道ができてからこの神社が創建された…と、私には思えるのだがいかがだろうか?中つ道ができたのは定かではないが、「日本書紀」孝徳天皇白雉4年六月には「處處の大道を脩治つくる」とある。このことから、7世紀の半ばにはできていたであろうというのが大方の推定であるから、壬申の乱でのこの一件は、創建したてのこの神社の位置づけをぐんと高めたであろうと思う。

…なんて、いい加減な憶測はほどほどにして、再び拝殿の前に戻る。拝殿には次のような立て看板が凭せ掛けてある。

大物主大神さまには大神神社の方で何度もお祈り申し上げていたが、奥方の三穂津姫様はこの度初めてのお目通りである。何とも可愛らしいお方でいらっしゃる。

そして本殿に向かって左隣には何とも可愛らしいお社がひとつ。

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コメント

  1. 薄氷堂 より:

     渋い神社ですねえ。さすがは奈良県です。

    > 何とも可愛らしいお方でいらっしゃる。
     「村屋ニイマス」というから、お婆さんが土鍋でグツグツおかゆを煮ている姿を想像したんですが、とんだ見当ちがいでした。たしかに美人ですが、なんと碧眼ではありませんか! 

  2. 三友亭主人 より:

    薄氷堂さんへ

    あれだけあちらこちらで浮き名を流したお方のお后様ですからねえ
    それはさぞかし…

    それにしても、このお二人が青い目とは…