5月の初旬にあった萬葉学会主催の萬葉学会一日旅行のレポートが7月に入ってもまだ終わっていない。理由は明らかで、私の怠惰のためである。しかしながらそれも今回でおしまい…にしたいと思う。
では早速…
ジヲウ古墳は保久良古墳のほど近くである。ここは『大和志』によれば、第19代允恭天皇の皇子、坂合黒彦の墓であるという。
この坂合黒彦の皇子が史書に名を残すのは…古事記、安康天皇の御代のことである。午睡中に安康天皇は眉輪王に殺される。ことの詳細はご自身でお調べいただきたいが、このことを伝え聞いた皇子、大長谷は大いに怒る。
大長谷の王、その時童男にましけるが、すなはちこの事を聞かして、慨み怒りまして、その兄黒日子(黒彦)のもとに到りて、「人ありて天皇を取りまつれり。いかにかもせむ」とまをしたまひき。然れどもその黒日子の王、驚かずて、怠緩におもほせり。ここに大長谷の王、その兄を詈りて、「一つには天皇にまし、一つには兄弟にますを、何ぞは恃もしき心もなく、その兄を殺りまつれることを聞きつつ、驚きもせずて、怠に坐せる」といひて、その衣矜を取りて控き出でて、刀を拔きてうち殺したまひき。
古事記安康天皇
父の殺害を聞いた大長谷が腰抜けの兄を殺してしまうという話である。なんとも気の短い話ではあるが、この大長谷の王は次代の雄略天皇である。この事件を日本書紀の方では次のように伝える。
天皇、大いにに驚きたまひて、即ち兄等を疑ひたまひ、甲を被り刀を帯き、兵を率て自ら、将として、八釣白彦皇子を逼め問ひたまふ。皇子、其の害はむとすることを知りて、黙坐黙原文は口編に黒して不語はず。天皇乃ち刀を抜きて斬りたまふ。更、坂合黒彦皇子を逼め問ひたまふ。皇子が害はむとすることを知りて、黙坐して不語はず。天皇の忿怒、弥盛にして、乃ち復井せて眉輪王を殺さむと欲すが為に、所由を案効ひたまふ。
日本書紀雄略天皇即位前
こちらでは、大長谷が自ら鎧をまとい兵を率いて、もう一人の兄である八釣白彦皇子を追及。兄が黙り込んで何も語らないのを見るや、刀を抜いて即座に斬殺。さらに坂合黒彦皇子をも同じように追及するが、彼もまた黙り込んで語らない。雄略の怒りはますます激しくなり、さらに眉輪王をもまとめて殺そうと、事の真相を激しく調べ立てた。
深く疑われることを恐れた坂合黒彦皇子は、眉輪王とともに隙を突いて逃げ出し、天皇家に並ぶ勢力であった大豪族、葛城氏の首領である円大臣の宅へ逃げ込む。その後の結末は…雄略の軍に包囲された円大臣は、最愛の娘や土地を献上して命乞いをするが許されず、邸宅ごと全員焼き殺されてしまうのだ。
のちに舎人たちが焼け跡から遺体を収容したものの、激しい炎に焼かれた遺体は、誰のものとも見分けがつかない状態だった。そのため、やむなく一つの棺にまとめて葬ったのがこの墳墓であるという。
ところで、2005年、その葛城氏の本貫地にある「極楽寺ヒビキ遺跡」で驚くべき発見があった。この遺跡は、5世紀代に大王(天皇)家に並ぶほどの絶大な権力を誇った葛城氏の本拠地とされる「南郷遺跡群」の一部なのだが、ここで五世紀前半の大型建物跡が見つかったのである。その床面積はなんと二百二十五平方メートル。五世紀代の建物としては国内最大級を誇る。奈良盆地を一望できる尾根上に位置し、敷地の周囲には濠を巡らせ、尾根の突端には物見やぐららしい建物跡、さらには南側に門を備えた塀の跡まで確認された。濠の中には立石が置いてあり、後の「庭園」に繋がる可能性もあるという。
調査にあたった橿原考古学研究所は、「一帯には王の住まいなどの施設群があったと想定され、今回の建物は『政治センター』の行政管理部門ではないか」との見解を示している毎日新聞2005年2月21日付。遺物の出土が少なく日常生活の場ではないことから、まさに葛城氏の王が祭儀や政務を行った中枢施設であったのだろう。なるほどと肯かされる、実に説得力のある見立てである。
しかし、その栄華は突如として終わりを迎えた。先述の通り、王朝内の王位継承の対立に巻き込まれ、のちの雄略天皇の猛烈な攻撃を受けて一族の勢力は大幅に衰退する。その象徴こそが、円大臣邸への焼き討ちであった。その名残であろうか…この極楽寺ヒビキ遺跡の建物や塀のほとんどに、激しい火災の痕が残されている。
この焼き討ちにあったと思われる生々しい火災痕は、まさに『日本書紀』が伝える雄略天皇による葛城氏急襲の記録を、1500年の時を超えて物質的に裏付ける結果となったのだ。
続いては、今木の蔵王権現堂。
ジヲウ古墳を跡にした私たちは、さらに足を延ばして今木にある蔵王権現堂へと向かった。蔵王権現堂といえば吉野山にあるものが有名であるが
お堂の敷地内に一歩足を踏み入れ、その山門前に並ぶ二基の立派な万葉歌碑の文字を一つずつ追う。
この一基に刻まれているのは、先ほど保久良古墳でお話を聞いた、斉明天皇が建王を思って崩御前まで愛誦したというあの、「今城なる小丘が上に雲だにも…」である。
そして、もう一基がこれ。
藤波の 散らまく惜しみ ほととぎす 今城の岡を 鳴きて越ゆなり
万葉集巻十・1944
上の写真と並んでなかなか文字が判別しづらいが、このような歌が彫り込まれている。思い返せば、今日の午前中、巨勢寺塔跡で私たちは蜀魂の声を聞いた。なんともまあ、偶然とは…との思いを抱きながら私たちは権現様にお別れを告げた。
蔵王権現堂を後にした私たちは、近鉄吉野線の福神駅を目指して最後の足を進めた。そしてたどり着いた駅のホームで、電車の到着を待った。それにしても、「福神」とはなんとも縁起が良く、温かい駅名じゃないか。なんでも、近所にある薬水八幡神社に祀られている毘沙門天が「福の神」として親しまれていたことに由来するらしい。
そして…この福神の駅で改札に入ろうとした時…ひと悶着あった。
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