2026年 萬葉学会一日旅行 3

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巨勢寺塔跡で聴いたホトトギスの余韻に浸りながら、私たちは巨勢の里の散策を続けた。次に向かったのは阿吽あうん寺。

じつはこの寺、先ほど訪れた正福寺と同じく巨勢寺の子院である。平安時代に近くを流れる巨勢川(現在の曽我川)が氾濫した際、阿吽法師と名乗る人物が現れて人々を救ったという。民はこれを崇め、巨勢寺の一坊に寺を構えさせたのが阿吽寺の始まりというのがこの寺の縁起である。

しかし、阿吽寺は室町時代の貞治元年(1362)に火災で全焼する。以降、荒廃の一途をたどり、江戸時代には無住となった。そんな頃に阿吽寺の貴重な仏像たちを預かり、守り続けていたのが、ほかでもない先ほどの正福寺であった。そして、明治、昭和を経て有志の方々の手により見事に寺は再建され、仏像たちが無事にお戻りになった。

ところで阿吽寺の境内は、その地に椿の木が多いことから玉椿山という山号を持つ。寺庭にはこのような歌碑が設置されている。

巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はむ 巨勢の春野を

巨勢山の連なる椿の木を、じっくりと眺めながら、この美しい巨勢の春の野を心に焼き付けよう

万葉集巻一/54 坂 門人足

大宝元年(701)九月に太上天皇(持統)が紀伊国に行幸した際にそれに付き従った坂門人足の有名な一首である。ただし、この歌が詠まれたのは9月(旧暦)。椿の花は咲いていない。作者は眼前の青々とした椿の茂りを見て、春の花盛りの頃の巨勢の里を思い描いているのだ。

さて、阿吽寺を後にした私たちは、巨勢川の対岸、水泥みどろ集落へと足を進める。そこにあるのは水泥古墳(今木いまき双墓ならびばか)である。

日本書紀の皇極天皇元年(642)12月の条には、蘇我蝦夷えみしが、生前に自分と息子の入鹿いるかのために双墓を今来に造らせたとある。そして、江戸時代の地誌である大和志では、まさにこの水泥集落にある二基の古墳をその「今木双墓」にあてている。

現地へ赴くと、巨勢丘陵の東麓斜面に、50m強の間隔を置いて二つの円墳が南北に並んでいた。地元では、石棺の残る南の古墳を「入鹿の墓」、北の大きい方の古墳を「塚穴古墳」と呼んでいるそうだ。

案内を受けながら、南の古墳の横穴式石室を覗き込む。かなり身をかがめなければ天井に頭をぶつけてしまいそうな石室の中に安置された石棺にはその縄掛突起(紐をかけるための突起)に六弁の蓮華文が彫り込まれている。古墳というこの国の古代の埋葬文化のなかに、仏教の象徴である蓮の華が溶け込んでいる。実はこの古墳が蘇我氏のものであるという大和志の記述には、築造年代のズレなどから疑義が持たれているが、この蓮華文の存在は大和志の記述を少しは後押ししているようにも思える。

続いては北側の大きな方の古墳。こちらは民家と言ってもかなりの邸宅であるの裏庭にある。ご主人のご厚意によって見学させていただいた。

こちらは、すでに石棺は失われていたが、石室の排水施設として瓦質の土管が敷設されていたことが調査で分かっており、当時の最新の仏教建築技術の応用であろうと推定されているそうだ。先程入った南側の古墳よりもその石室は遥かに広く、その石室の奥の壁面を構成する巨石はこの墓の主の強い権勢を彷彿とさせる。上述の通りこの古墳は、ここを蝦夷・入鹿の墓とする大和志の説の信憑性は弱いとされているが、それではこの時代この巨石を持って石室を構成させた権勢の持ち主は誰なのか…現代考古学の成果に対してちょいと???の念を感じてしまう三友亭であった。


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