2024年萬葉学会1日旅行 その2

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畝傍御陵前の駅をあとにした私達の最初の目的地は本薬師寺跡。

写真はその金堂の礎石である。この日に頂いた資料によればこの寺は

天武九年(六八〇)十一月、皇后(のちの持統天皇)の病気平癒のために、天皇が請願して創始されのが薬師寺である(『日本書紀』)。間もなく皇后は平癒したので、工事は進まず、朱鳥元年(六八六)九月、天皇は崩御した…中略…文武二年(六九八)十月には薬師寺の構作がほぼ終わり、衆僧をすまわせた(『続日本紀』)

国史大辞典

とある。この本薬師寺と現在の薬師寺の関係についてかつてこの位置橿原市城殿町にあった薬師寺が平城遷都に伴って現在の位置に移設されていたとも考えられたり、いやいや今の薬師寺は新造されたものである…なんて、論議が喧しい時期もあったが、現在は後者の考えの方が妥当であろうという考えに落ち着いているらしい。

「お彼岸は薬師寺に」なんて題しておきながら、その続きをかくのをさぼっていたら明日は10月。いつまでもサボっては…
とはいえ、この両者は全く関係がない寺院ではなく、平城の都人たちにとっても、新たな薬師寺は藤原の地にあった薬師寺の後継であるとの意識は明瞭で、上記のこの寺の創始に関わる経緯も、その東塔の水煙の擦管に刻まれた銘文に次のように記されている。

維清原宮馭宇天皇即位八年 庚辰之歳 建子之月 以中宮不悆 創此伽藍 而鋪金未遂龍駕騰仙

大上天皇奉遵前緒遂成斯業 照先皇之弘誓 光後帝之玄功 道済郡生 業傳曠劫 式於高躅敢勒貞金其銘曰

巍巍蕩蕩薬師如来大發誓願廣
運慈哀猗與聖王仰延冥助爰
餝霊宇荘厳調御亭亭寶刹
寂寂法城福崇億劫慶溢萬齢

このままでは無学な私にはなんのことやらさっぱりわからないのでちょいと書き下してみる。

れ、清原宮きよみはらのみや馭宇あめのしたしろしめす天皇の即位八年、庚辰の歳、子を建つるの月、中宮不悆を以って、此の伽藍を創む。而して鋪金未だ遂げざるに龍駕騰仙す。

大上天皇、前緒に遵い奉り、遂に斯の業を成したまう。先皇の弘誓を照らし、後帝の玄功を光かす。道は郡生を済い、業は曠劫に傳わらん。って高躅に於て、敢て貞金に勒す。其の銘に曰く、

巍巍たり、蕩蕩たり、薬師如来。大いに誓願を發し、

廣く慈哀を運らしたまう。猗與聖王、仰いで冥助を延ばさん。

爰に霊宇を餝り、調御を荘厳す。亭亭たる寶刹、

寂寂たる法城。福は億劫に崇く、慶は萬齢に溢れん。

あんまり自信はないが…「清原宮馭宇天皇」は天武天皇。「皇后」とはのちの持統天皇のこと。ほぼ、上の国史大辞典の説明通りである。

いずれにしろ天皇の請願による寺院なのだから、行ってみれば国家としての事業となる。その規模は壮大なものであっただろうし、その様式も最新のものが用いられていたのだと思う。

写真はこの日の資料にあった本薬師寺の伽藍配置図、上の写真はこの中の金堂の礎石の写真である。これだけでも結構巨大な規模を誇っていた寺院であることがわかると思うが、近年この図には描かれてはいない南門の後が発見されたのだそうで、

【NHK】奈良県橿原市にあった飛鳥時代の都、藤原京の本薬師寺の跡で、寺の正門にあたる南門の隅の部分が見つかりました。 調査に当たった橿原市の担当者は…
あらためて、その堂宇の壮大さが確認された。

現在の薬師寺の東塔の水煙云々の話は、私が勝手に付け加えたものであるが、この日の案内者であるM田先生は金堂の礎石周辺でおおよそ以上のような説明をしてくださった。そして、西塔跡、東塔跡を順に巡る。
ここからは私の全くの無責任な話になるが…

西塔から見た東塔跡である。当然のことながら真東にある。そしてそこから真後ろに振り返ると…

三山の一つ、畝傍山である。東塔・西塔、そして畝傍山とが完全な一直線をなしている。このことを踏まえて、天武天皇の大和三山の中にあっての畝傍山の位置づけに付いて私は以下のように考えている。少々長くなるが、さらにおつきあい願いたい。

話は大陸、時代は秦の始皇帝の時代まで遡る。大陸を統一した始皇帝はその領土を5度にわたり巡行する。それは2度目の巡行、渤海のほとりにおいてであった。周知の如く、秦は内陸の国。始皇帝にとっては初めての海であった。彼はその広大な景色をいたく気に入り、その海岸の地に例を見ない長逗留をしたという。

ある日のことであった。昨日まで洋々とした海原にはなんの島影も見えなかった。けれども、その日、その遙か沖に、まぶしい光の中に揺らめく陸地が姿を現した。始皇帝をはじめとした一行が、この奇なる事実に肝を抜かしたことは言うまでもない。

・・・神仙の地・・・・

彼等の脳裏に浮かんだのはこの言葉である。人あって始皇帝に言う。 「渤海東方の沖には蓬莱・方丈・えい洲の三神山がある。そこに神仙が住まいし、永遠の生命を約束する仙薬があると・・・」 。今の始皇帝には恐れるものは何一つ無かった。あったとすれば、彼が人間である限り避けることの出来ない命の終わり。 始皇帝はどうしても、その仙薬を手に入れたいと思った。そして、そこに現れたのが徐福という方士(不老不死の術や医術・易占などを行う者)であった・・・・

世に言う徐福伝説である。

なぜ、ここでこんな話が出てきたのか、いぶかしく思う方がおられるかも知れない。けれども、この話の根幹にある漢民族の土着的・伝統的な宗教である道教は日本にも強く影響を与えていたことは日本書紀の記述のあちらこちらに見ることが出来る。特に話題の中心である天武天皇の道教に対する傾倒ぶりは並々ならぬものであったらしいことは、次の例からも窺い知れよう。

八色の姓を制定しその最上位に「真人まひと」をおいたこと「真人しんじん」とは道教において理想とされる人間像である。
陰陽寮の設置 、いうまでもなく、この陰陽寮は陰陽道をつかさどる役所。そして陰陽道とは古代中国国の占術・天文学の知識を消化しつつ神道・道教などの様々な要素をとりいれて日本特異の発展を遂げたものであり、とくに道教の影響は色濃く残っている。
そして何よりも天武天皇自身の天渟中原瀛真人あめのぬなはらおきのまひと天皇という和風諡号はその道教への傾倒ぶりを如実に物語っている。瀛真人とは上の話の中にあった三神山のうちのひとつ、瀛洲にすむ仙人のことである。この和風諡号が文字通り諡号であって死後に贈られた名であるか、諱(イミナ=実名)であるかについては説が分かれてはいるが、いずれにしろ天武天皇の人となりを表した名であることは疑う余地はない。

ところで、先に述べた薬師寺東塔の擦管の碑銘には天武天皇の崩御を「龍駕騰仙」と表現している。「龍駕騰仙」とは龍に乗り、仙境に至ることを意味する。ならば、その仙境とは何処か・・・・その瀛真人の名の示すとおり瀛洲であると考えるのが穏当化と私は思う。天武天皇の魂魄はその現し身を離れ、龍にまたがり三神山の一つ、瀛洲に至ったのである。

そして畝傍山こそが天武天皇が瀛洲と見立てた聖なる山であったのだ。だからこそ、彼がその建造を強く願った薬師寺が、かくまでに強く畝傍山を意識した位置に配置されたのである。

蛇足ではあるが、最後に今ある薬師寺は…畝傍山の真北に位置していることも最後に付け加えておく。

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