前回は後半の部分でずいぶんと怪しげなことを申し上げたが、その怪しげな部分を補強するような写真から今回は始めたい。
前回の記事で西塔跡からの見え加減をご紹介した本薬師寺東塔跡に残るの心礎である。そしてその心礎の上に立って西を見る。
畝傍山である。生け垣に隠れて見えなくはなっているが、西塔の跡は、無論この2つのものを結ぶ直線上にある。本薬師寺がいかに畝傍山を意識して建てられていたことの証左となりうる事実と私には思えてならない。
さて…単なる思い込みに過ぎない私の怪しげすぎる話を続けることは、このこの一連のお話の信頼性を傷つけることにつながるかもしれないのでここまでにしておいて…
…わたしたちは本薬師寺をあとにして東へと向かう。途中、明日香川を渡る。道はいつの間にか北に向きを変えている。
はて…最近、流行りの言葉だねなぜ、唐突にこんななんでもない倉庫の写真を…とお思いになる方が多いかもしれない。しかしながら、今このブログをよんでいらっしゃるかたの、ほんの一部の方には、「あそこか!」とお気づきになる方がいらっしゃるかもしれないまあ無理かな。
NHKの人気番組でもあると私はいる思っている火野正平さんの「こころ旅」で、火野正平さんが初めて奈良にいらっしゃったときに、明日香から大神神社の展望台まで火野正平さんが自転車で移動される回があった。
近所のおばさんが聞く…「どこに行く?」
正平さんは、一見そっけなく「そうめんを食べに行くんだ…」と応える。
まことにそっけないやり取りである。しかし、そこには微塵の冷たさも感じられない。ほんの短い会話の中に、この番組が結構な人数の方々の心を引き続け続けている理由がわかるような気がする。そしてこの人がかつて多くの女性と浮き名を流すことが可能だった理由も…
そして、その先の四つ辻を右に曲がり、わたしたちは再び東へと向かう。歩くこと200mほど、M田先生の説明が始まる。
これまた、大和三山の一つ、耳成山が北の方角に見える。そしてその右側の山裾のあたりに木立が低く見えている。ここにかつてこの都の中心である大極殿があった。私達が今いる場所はそこから真南に位置する場所ということになる。
ということは、ここは藤原宮から南へまっすぐに伸びた道…朱雀大路…の上ということになる。朱雀大路はここからさらに南にも伸びていた。
ちょいと木立になっているのは日高山。かつてはもっと右の方まで尾根は伸びていたのだが、藤原建都の際に削られたのだという。都の中心を走るべき朱雀大路にかかってしまうからである。朱雀大路の道幅は24mほど、平城京73mや平安京82mのそれよりは かなり狭い。
ここからは私の勝手な想像であるが…都全体の規模はそう小さいものではないからというよりは古代宮都にあって面積は最大、この朱雀大路の狭さは都づくりの考え方の違いからくるものなのかもしれない。平城京・平安京は基本的には南北に長い長方形の区画であるが、藤原京は正方形の区画を持つ。そして宮の位置も前者が北辺にあるに対して、藤原京の宮は中央に位置しているじゃないか…なんてことを考えながら私は先生のお話を聞いていた。
ところで、先ほど頂いた今回の一日旅行の資料には次の短歌が載せられていた。
大宮に 直に向かへる 屋部の坂 いたくな踏みそ 土にはありとも
日本後紀大同元年(816) 4月1日
そして日本霊異記にも、少々表記の違った形で同じ歌が収録されているらしい。この歌に出てくる「屋部の坂」が、朱雀大路を築く際に削り取った後の切通がこう呼ばれていたというのだ。
「屋部の坂」は萬葉集にも、
阿倍女郎屋部坂歌一首
人見ずは 我が袖もちて 隠さむを 焼けつつかあらむ 着ずて来にけり
萬葉集巻三/269
と見えている。
この「屋部の坂」については、旧来田原本町の矢部とする説、かつてあった高市郡夜部村現在の明日香村小山であるという説が行われてきた。また、角川日本地名大辞典では信貴山超えで河内に抜ける道中にある坂とする説も紹介されている。手元の注釈書の最新のもの伊藤博萬葉集釋注を確かめてみても、その域を出ない。
そんなことは一日旅行のときには全然眼中になく、M田先生のお話をなるほどのうなづきながら聞いていたのだが、家に帰ってちょいと調べてみると上に述べたような状況だったので「???」てな感じになってネット上でもう少し調べを入れてみた。そして見つけたのがこれ。
私が見つけることのできた「屋部の坂」=日高山切通との考えを取る唯一の文章である。奈良県は明日香にある万葉文化館の研究員の方が書かれたコラムである。2020年とあるから結構新しい考えである。
新聞に載せた一般の方々向けのコラムであるから、どこの誰の考えであるとか、この考えの根拠となるようなことは語られてはいないので、むやみに信じ込むわけにはいかない。事実、万葉文化館のホームページのコンテンツである万葉百科における269番歌の解説においても、「屋部の坂」の注においても、奈良県内、所在未詳としてその候補地をについて、
- 磯城郡田原本町矢部。
- 高市郡明日香村小山。
- 『法隆寺伽藍縁起並流記資材帳』の「平群郡屋部郷」、生駒郡斑鳩町服部に比定されている。
- 橿原市四分町。
- 御所市重阪峠。
- 奈良県秋篠町矢部。
- 信貴山越の河内への道。
と7つの説を紹介しているが、この日高山の切通については触れられていない。
けれども、日本後紀や日本霊異記の歌をわざわざ今回の資料に乗せたのは、M田先生にあってもこの考えに魅力を感じるものがあったからなのだろう。ひょっとしたらM田先生はこのときその説明を詳しくなされたのかもしれない。そのあたりは私の頼りのない記憶力であるから何とも言えない。
そうではあっても…私自身にも歌中の「大宮に 直に向かへる」という表現は朱雀大路の上にあるこの日高山の切通こそふさわしく感じられるのであって、ⅰ~ⅶのいずれに従ったとしても、「大宮に 直に向へる」という表現はそぐわない…という思いは強い。
コメント
確かに、日高山の切り通しならば「大宮に 直に向かへる」という歌句とぴったり重なりそうですね。
いけそうな気がします。
源さんへ
そうなんですよね。
他の、磯城郡田原本町矢部・高市郡明日香村小山・平群郡屋部郷(生駒郡斑鳩町服部)・橿原市四分町・御所市重阪峠・奈良県秋篠町矢部・信貴山越の河内への道のどこを考えても、「大宮に 直に向へる…」とはならないんですよね。
「大宮に 直に向へる」という表現が朱雀大路でなければならないというわけではないのでしょうが…
でも、可能性としては一番高そうな…