ふたたび葛城古道をゆく…高鴨神社

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近鉄御所駅を降りたら五條方面に向かうバスに乗る。1時間に1本弱と本数が少ないので、時刻表をしっかりと見ておくことが大切だ。

御所市は大和平野の南の端。ひと山超えた五條市からは吉野川沿いに道が走り、紀州へと続く。妹背の山もほど近い、そんな場所である。これまで見てきた大和の風景とはちょいと違った雰囲気が漂う。

そんな景色を眺めながらバスに揺られことしばし…風の森峠というちょいと洒落た名の峠道の途中、その名も風の森という名のバス停で降りる。風の森という地名は、このバス停のほど近くにある風の森神社に由来するのだという。風の森神社は、志那都彦しなつひこ神社とも呼ばれていておそらくそっちのほうが本来の名だろう、風の森峠の頂上付近に鎮座する。志那都彦神社の祭神は志那都彦日本書紀では級長津彦命と表記。日本書紀、国生みの段の一書に、大八洲おほやしまを産み終えた伊弉諾いざなきの神が、「我が生める国、唯だ朝霧のみ有りて、薫り満てるかな」とおっしゃり、その「朝霧」を吹き払ったときに、その息からお生まれになった神様だということになっている。だから、もちろん風の神様だ。

葛城、金剛といった山から吹き下ろす風は特に冬季厳しく、そして冷たい。そんな風から人々を守ってくださるのがこの神様だ。してみれば、もとは風の守りといっていたのが、その語義が忘れられるに従い、風のと表記するようになったのだろうと思う。

このバス停からちょいと戻ったところにある信号を左、金剛山の方に折れて10分ほど道なりに進む。自動車がすれ違うのが少々苦しいほどの狭い道である。道はくねくねとうねってはいるが、まず迷うことはない。

そして10分、これまで来た道とほぼ直角に交わる道にでくわす。この道は楽々と自動車がすれ違えるほどの幅の道である。標識があって、高鴨神社を示す矢印が右をさしている。そして、その矢印に従って、ここで右に曲がる。そこからはこんもりとした森が見える。そして、赤い立派な鳥居があるのに気づくはずである。

高鴨神社だ。

高鴨神社は、延喜式神名帳に高鴨阿治須岐詫彦根命たかかもあじすきたかひこねのみこと神社とあり、月次・相嘗・新嘗の祭に際しては官幣に預かった名神大社だ。大神おほみわ神社や大和大国魂おほくにたま神社(大和おやまと神社)とならんで従二位の神階にあったこのお社の祭神は、清和天皇貞観元年(859)正月には、先の二社とともに従一位に叙せられるほどであった。

この神社のホームページの由緒書きには、

弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波かもつば神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳かづらきみとし神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。

とあり、さらに、

このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。

とある。

世に、葛城王朝説なるものがあり、三輪山山麓に発した崇神王朝に先立つ時期、この葛城・金剛山麓に、一つの宗教的権威、そしてそれに伴う政治権力が存していたとする。存在の疑われている第2代から9代初代だって疑われているよねまでの天皇は実在し、それがこの葛城の王朝なのだと…そしてそれがそれが崇神王朝によって滅ぼされたと、この説の提唱者である鳥越憲三郎氏はいう。

このあたりについては、現在あまり顧みられてはいないようにも思われるし、私自身も積極的にこの考えを支持するものを持ち合わせてはいない。ただ、無碍にそのすべてを否定するべき…と言い切れるのかどうか、私には自信がない。

さて、先程は遠くに見えていた、赤い鳥居がすぐそこにある。一礼して鳥居をくぐる。

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鳥居を抜けて参道に入ると、ご覧のような池が左手に見える。静かな池面には対岸の景色がきれいに写りこんでいた。背後にそびえているのは、もちろん、金剛山である。

見事としか言いようのないほどの静寂がそこにはあった。

参道はそれほど長くはない。ちょいと後ろを振り返って、鳥居から拝殿のある石組まではざっと20mと言ったところか…。ほどなく、ご覧のような、高く組み上げられた立派な石組みの麓にたどり着く。

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以前、このお社について書いた。

鴨都波神社 近鉄御所(ゴセ)の駅を降りると、その西に我々を威圧するように聳えるのが葛城山だ。今は「カツラギ」…
そのときには、なにぶん実物を見もせずに人様のブログの写真で書いたものだから3m程と書いたが、実際に足を運んでみると明らかに誤りであった。少なくとも5m・・・ひょっとしたら6mはあるかもしれない。重厚な、がっしりとした石組だ。

石段を登り、上にたどり着くと拝殿が見える。

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石組の下にいる時から、何やら重々しい声が聞こえていて、これはなんだろうと思っていたが、登って拝殿の中をのぞき見るに、その声の主は明らかになった。写真中央の人物だ。この古社の宮司なのだろうか。おそらく長年の務めの中で鍛え上げられただろう喉は見事としか言いようがない。重々しく、そして荘重な祝詞の調べは、今を生きる私の精神をいとも容易に太古の世界へと引きずり込んだ。私には見えない・・・高鴨阿治須岐詫彦根命の御姿が宮司おそらくの幻視する目にはきっと見えているのだろう…そんなふうに思えてならなかった。

高鴨阿治須岐詫彦根命は大国主神の子。別名は迦毛かも大御神で、古事記において天照大御神とならんで「大御神」の称号で呼ばれる数少ない神の一柱だ。全国に広がる「カモ」と名付けられた全ての源がこの地にあるのだとという。

当神社は全国鴨
(加茂)社の総本宮で
弥生中期より祭祀を行う
日本最古の神社の一つです。

高鴨神社HP「当神社について」

ということは、京都の「上賀茂神社」「下鴨神社」も、この地にそのルーツを持つ、ということになる。

この神様は古事記を見るに大国主神の子、出雲神話に登場している。してみれば、出雲系の神様のように思われがちであるが、歴然とした大和の神でもある。同じくこの社の祀られている事代主ことしろぬしも同様の事情を持つ。そういえば大国主神だって三輪山の大物主神と同一視されている。大物主神は大和の国つ神であって出雲のそれではない。

このあたりの出雲系と大和の神々の交流の・・・もっと正確に言えば混同は私にはどうにもわからない。単なる信仰上の混同なのか、それともかつてあったなんらかの歴史的な事実の反映なのか・・・考えれば興味が尽きない。けれども、私のような不見識なものがそんなところに深入りすればとんだ大恥をかくこと必定である。ということで、私は宮司の荘重な祝詞の声を邪魔しないように、静かに柏手を打ち恭しく礼をして拝殿を後にした。

※このお社は実に美しいHPを運営していらっしゃるので最後の紹介しておこうと思う。

葛城 鴨の神奈備古代より祭祀が行われし聖地「天なるや 弟棚機のうながせる玉の御統 御統に穴玉はや み谷二度らす阿治志貴高日子根の神そ」日本最古の夷振(古事記 上つ巻)(日本書記 神代下)
必見ですよ…

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