続 三輪山セミナー「うまさけ 三輪の山」

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先週に引き続き、三輪山セミナーでの廣岡先生のお話。

お話のテーマは、額田王の「うまさけ 三輪山」の歌であるから、額田王について語らないわけにはいかない。そのうちのひとつふたつ…

まずは「額田王」という字面の訓みについて。

これを私たちは、「ぬかたあるいは「ぬかだ」おほきみ」と訓んで疑うことはなかった。が、先生のお話のよれば、今年に入ってこの訓みに疑義が示されたらしい。「王」の文字、「おほきみ」ではなく、「きみ」と読むべきではないのか…すなわち、「ぬかたぬかだのきみ」と訓むべきなのだ、という考えだ。

そして、疑義を提出されたのは東野治之氏。この時廣岡先生はその出典をおっしゃってはくれなかったので、ちょいと自分で調べを入れてみた。

「近畿文化会」近鉄グループが営んでいる。という団体が発行している冊子、「近畿文化」がある。その2024年2月号に「額田王と鏡王女 -飛鳥時代の皇族の称号ー」という文章を載せられているらしい。おそらくは、ここに上の考えが示されているものと思うので、可能ならばいずれ取り寄せて確認してみたいとは思うが、詳細は、読んでみなければその考えに私が従うべきかどうかは今は判断できない。しかし、これまで、「王」の字を、「おほきみ」とさしたる根拠がなく訓んで、多くの人々がそう訓んでいるからといってこれを疑うことのなかった事は見直されなければならないと思った。

以上が1つ目である。そして2つ目。

これは、萬葉集の資料にかかわるお話である。萬葉集が編纂物である以上、その元になる資料は複数存在したと考えられている。今回のお話は、萬葉集の巻一の3番歌から51番歌までの部分、いわゆる原萬葉と呼ばれている部分のさらにその中核たる部分についての推定である。

それは萬葉集、巻一の3番歌から22番歌についてさらには巻二の挽歌の一部について。この部分はかつて吉井巌氏「萬葉」53号「額田王覚書によって、額田王メモがその資料となったと推定されている部分である。廣岡先生はこの部分をさらに歌稿A、歌稿Bに分け、前者を大海人皇子所伝本、後者を葛野王額田王の孫所伝本とされていた。

私が読んで知っていたのは「額田王メモ」の存在まで。これに2つの所伝正しくはもう2つがあったことは知らなかった。まあ、私が萬葉集について、曲がりなりにも勉強していたと言えるのは40年以上も前のことなので、まあやむを得ないことであると自己弁護しておく。おそらく廣岡先生の御説『萬葉集形成通論』第一部「萬葉集の成立と歌人」なのだろうと思うが、まだこの著は手に取ったことはない。だから、今回のこの資料論は、私ににとっては初めてのお話。かなり興味深かった。

誠に勉強になった1時間と半であった。

来週の土曜日は萬葉学会の1日旅行で藤原京を歩く。

これも楽しみである…

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コメント

  1. 玉村の源さん より:

     なかなか興味深いですね。
     古事記で「王」は「みこ」と訓んでいるように思いますけど、それは天皇の子だからであって、天皇の孫以下の場合もそうで良いかどうか。
     おもしろいです。

    • sanpendo より:

      源さんへ

      このことは他のいろんなところでもいえるんじゃないのかな…って思いまして…
      万葉集の中だけに限らず、これまで何の疑問も持たずに訓んできているものって結構あるんですが、その
      訓みの根拠はって言われると、あんまり自信をもって言えるものが少ないなあって思いました。

      白村江なんて「はくすきのえ」と習ったからそのまま覚えていましたからねえ。