私の…ご先祖様(中)

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様々な意味においてどう見ても経営が成り立たないであろう野蒜村になぜ我が家のご先祖様がわざわざ移住してまで遊郭を経営しよう…などと思ったのか。

そんな疑問を呈した形で前回は終わった。むろん、こんなことを書いている以上、今の私はその答えを知っている。しかし、その答えとなるべき事実と、伊達藩随一の寒村である野蒜村に我がご先祖様が遊郭などを営もうとしていた事実が、子供の頃はうまく繋がらないでいたのである。

明治政府がある程度の安定を見せ始めた明治11年、我が野蒜村には大規模な築港計画が持ち上がっていた。正しい詳細についてはココを参考にしていただければと思うが、うちのばあさまやら、両親、おじさま、おばさまがたの少々胡散臭い話を総合すれば以下のようになる。

そもそも、野蒜の地は太平洋の向かって開け、そこに牡鹿半島が堤防のように突き出している。明治に入って付き合いのはじまったアメリカに向けて最短の距離の場所である確かめたことはない。そこに目を付けた明治政府は、仙台の地を東の中心地として重視し、この野蒜の地に大規模な貿易港を作ろうと考えた。完成し、実際に運営されていたならば、この辺りは横浜並みの街に育っていたであろうというほんまかいな?。旧制高校において第二高等学校を仙台においたのも、そういった背景のもとにあるのだそうである。

しかしながら上にあげた資料にもあるように、この築港計画は嵐とともに潰えてしまった。明治17年のことである。この築港が失敗に終わったことが、逆説的に今の横浜の街の繁栄に繋がったホントかよ…とは思う

どこまで信用していいか判断はしがたいが、わが故郷の地に大規模な築港計画があったことは確かであり、もしそれが成功していれば、伊達藩随一の寒村野蒜村は仙台に次ぐ東北第二の都市に成長していた可能性が高かったとは思う。そして、東北第一の都市である仙台と結びつき巨大な都市圏を形成していたはずである。

…てなことは置いておいて、我がご先祖様がなぜ野蒜に遊郭を経営しようなどと思うに至ったかについてである。もう私がここでくどくどと説明する必要はもうないかとおもうが、我が家の先達たちの話を思い出しながらあえて説明するならば…こうだろうか。

江戸幕府が瓦解し、世は新たに明治の御代と相成った。宮城県矢本村北浦の地に住んでいた我がご先祖様は隣村の野蒜村に大規模な築港計画が持ち上がっていることを知る。そのような大規模な工事があるならば当然のことながらその工事のための人足が大勢集まる。これを機会に何とか一儲けできないかと我がご先祖様は考えた。

大規模な土木工事となれば、集まってくるのは身体壮健なる男どもばかりである。女気なぞはそこには存在しない。そこで女遊びをする場所が必要になるだろう。

てな具合に我がご先祖様は考えたのだろうか。

以上が、私がうちのばあさまやら、両親、おじさま、おばさまがたの少々胡散臭い話と歴史的な事実である。どこまでを信じるかは皆さん次第である。

写真は鳴瀬川の河口である。川の向こう岸とこちら川の岸辺に黒っぽく堤防が見える。これが明治政府の見果てぬ夢の残骸である。

ところで、この野蒜築港の際の堤防の写真を探していたらこんな写真も出てきた。

この前紹介した「みちのく悠々漂雲の記/宮城県」さんの写真とあまりかわりがない。どうも、同じもののように思う。隣の家が改築されたあとのものであること、家の手前の路肩がきちんと整備されてあることを考えると、この写真はどうも私が小学校に入って後のものである。自分の子供時分の写真がこんなにも古色蒼然としていることにいささかショックを覚えないでもないが、私にはまだ藁葺であった隣の家の記憶があるし、どこからが公道であり、どこまでが我が家の敷地であるか、そんな区切りもない地道であった家の前の道も知っている。

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