私の…ご先祖様(上)

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記録があったわけではないから本当のことかどうかは定かではない。記録があったとしても、あの日の荒れ狂った海がすべてを流し去ってしまったことだろう。そして…そんな話を私に聞かせてくれた人々も、すでに世を去ってしまっているのですべては確かめようもない。そんな不確かな話ではあるが、私が郷里にいた頃に祖母や両親に聞いた「我が家」についての話を書きとめてみたい。

私の生まれ育った鳴瀬町今は東松島市野蒜の新町と呼ばれる地域は鳴瀬川が太平洋に注ぐ、そんな河口の街である。海岸線から川に沿ってまっすぐに道が走り、その道に沿って家が立ち並んでいた。「尾形」という姓が多く、私の家の近辺も5件ほど「尾形」の姓が並んでいた。小学校などでは、一つのクラスの4分の1が「尾形」だったような記憶があるちょっとおおげさかな?。そして…私の家もそのうちの一つであった。

と書くと、この「尾形」なる一族がこの野蒜の新町あたりに幅を利かせているようにも見えるのだが、実はこの「尾形」なる一族には2つの系統があったのだというここから先は祖母やら両親からの聞き書きで真否については保証できない。一つは以前からこの野蒜に住んでいる「尾形」、つまり土着の「尾形」。もう一つが、隣町である矢本町ここも今は東松島市となっているの北浦というところから移り住んできた系統の「尾形」。

ただし、この矢本町の北浦という地名にはもう一つ自信がない。同じ矢本町でも別のところだったかもしれない。が、野蒜の地に、どこからか移り住んできた「尾形」の系統があるというのはおそらく確かである。その後者である私は、小学校の低学年だった頃、その北浦に住んでいるという遠い親戚の家に連れて行ってもらったのをはっきり記憶しているからだ。ただ、このときの北浦という土地への印象が、高校に入ってその北浦の地に友人ができて頻繁に遊びにゆくようになってからの印象が、あまりにも違うので、父親に連れて行ってもらったあの場所と、高校の友人の住む「北浦」ととはが、同じ場所とは思えないのだ。

ともあれ、我が一族は矢本町のどこからかから鳴瀬町野蒜新町に移り住んだ。その時期は江戸の末期か明治のはじめだと聞く。まだ、野蒜村といっていた時期のことだ。津波に流されてはしまったが、私の生まれ育ったその家は慶応3年の築だと聞いていたあくまで「聞いていた」である

ならばなぜ…我が先祖はなぜ矢本から野蒜へと移り住んだのであろうか。その理由は下の写真に隠されている。

写真は「みちのく悠々漂雲の記/宮城県」というサイトの「野蒜新町」というページからいただいてきたものだが、何を隠そう、私の生家である。高校を出て大和に出てくるまで私はこの家で育った。いくら昭和の時代と言っても、あまりにも古びたその構えは上にも述べたように慶応3年のもの。この写真を取った時期でもすでに100年は建っていたはずである。

上の写真は上述のページから頂いてきたものであるが、写真上にある、

野蒜新町箒はいらぬ

若い娘の裾で掃く

という文句の小唄が明治の初年にうたわれており、写真の我が家が、この小唄がうたわれるような場所であったというのだ。私が中学校の頃、古い先生に教えてもらった歌詞は、「野蒜掃くには箒はいらぬ 着物の袖で履けば良い」という歌詞だったが、大意はほぼ同じ、わが町野蒜が明治初年に如何に繁栄していたかをうかがわせる…そんな歌である。そしてその歌に加え、写真の我が家の構えを見れば、「ははん」と思われる方もきっといらっしゃるものと思う。

そう、遊郭うちのばあさんは女郎屋という言葉を使っていたである。玄関から右に伸びる格子のむこうには明治の初年、客待ちをする女性が複数名座っていたことだろうと推定される。

私のご先祖様は今を遡ること150年以上前、隣村である矢本から野蒜村へと移住し、そこで遊郭を経営していたのである。

私はこのことを結構小さい時から聞いていた。ませた子供だったから「女郎屋」がいかなる場所もよく知っていたのだが、「へえ〜」と思うぐらいで、他にあんまり思うことはなかった。ばあさんや両親とともに時代劇をよく見ていたので、我が家は昔あんなところだったんだと思うぐらいで、特に特別な感慨はなかった。

あくまでも・・・昔のことという感じであった。

それよりもなぜ我がご先祖様が隣村からわざわざ引っ越ししてまで野蒜村に遊郭を開こうと思ったのかを疑問に思った。子供ながらの常識でも遊郭なるものを経営しようと思うのならば、そこには一定の人口と経済的なゆとりがなければいけないことはわかっていた。

しかし、私の聞いていた野蒜村は遊郭を支えるような人口も経済的なゆとりもなかった…はずである。野蒜村は伊達藩有数の貧乏村であり、江戸時代に何度かあった飢饉の際には、そのたびごとに多くの死者が出ていた。私はこのことを幼稚園の頃に担任の先生から聞いたことをはっきり覚えている。なにせ、その先生はお寺の娘で、お寺は過去帳なんて言う資料を持っているから結構信頼できる話である。

信頼できないとすれば私の記憶力であるが、珍しくこのことに関しては自分の記憶に自身がある。私はこの時の担任の先生が大好きだったので、先生のおっしゃることは一言も漏らすまいという姿勢で聞いていて、先生のお口から出た言葉はしっかりと心に刻み込んでいたからだ。今の私のわずかばかりの教養はこの頃に作られたと言っても過言はないほどだ。

ちょいと話がそれた…もとにもどそう。

つまり、様々な意味においてどう見ても経営が成り立たないであろう野蒜村になぜ我が家のご先祖様がわざわざ移住してまで遊郭を経営しよう…などと思ったのか。

どう考えても私には理解できなかった。

…続く

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