ふたたび葛城古道ゆく・・・一言主神社(続)

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このお社の神様のお名前は一言主ひとことぬし大神。古事記では、葛城山中にやってきた雄略天皇に名を問われて、

吾者 雖惡事而一言 雖善事而一言 言離之神 葛城之一言主大神者也

吾は悪事まがごとも、善事よごとも一言、言離の神、葛城の一言主の大神

古事記 雄略天皇

と自ら名告っている。その神としての性格は、「言離」という語がそれを示しているといえよう。その語義について國學院大學古典文化事業の神名データベータのまとめを参考に諸説を整理すると以下のようになる。

「コトサカ」と訓む場合

  • 悪事からも善事からも関係を絶つ(離れる)神
  • 別に離すと解釈して「決断」の意にとり、この神の託宣が吉事か凶事か一言で決定する神

「イヒハナツ」と訓む場合

  • 言い放つ意で、決定する神
  • 言ひ離つを託宣する意とし、一言口にしたことが、必ず実現するという言霊信仰の神

「コトハナツ」

  • 言離つ意で、託宣する神

どれもこれもそれらしく見え、私などには判断しかねるが、皆さんはどうお考えになるだろうか。

この神様が古事記に登場するのは雄略天皇の時代である。引用が長くなるので、話をちょいと短めにまとめると次のようになる。

雄略天皇が葛城山に出かけたときのこと、その天皇の列とまったく同じ装い・人数の一行に会う。これを非礼と感じた天皇が咎めると、上に書いたように名告った。それを聞いた天皇は、畏れ入ってしまいすべての家来の衣服を捧げた。一言主大神はそれを受け取り、お礼に天皇が帰るときには、山の峰を行列で満たして、天皇を長谷の山の入り口まで送った。

ここでは一言主大神は天皇が「惶畏」するべき存在としてある。古事記から10年ほど後の日本書紀になると、天皇と一言主大神が葛城山の麓で伴に狩りを楽しむという筋立てになっている。両者の関係はほぼ同格である。

そしてもう少し時代を下る。天平宝字8年というから、西暦764年11月には高鴨神が土佐国から大和へと遷されるに際して、賀茂朝臣田守が、昔の話として

昔、大泊瀬天皇葛城山に獲りしたまひし時、老人有りて、つねに天皇と相逐あひおひてえものを争ふ。天皇怒りて、その人を土左国に流したまふ。先祖のつかさどれる神化して老夫と成り、ここに放逐せらる

続日本紀天平宝字8年11月7日

と言っている。大泊瀬天皇は雄略天皇のことであるから、それに加えて葛城山で狩りをしたということになれば、文中の「老人」は一言主大神のようにしか思えないのだが、高鴨神とは前にちょいと出てきた高鴨阿治須岐詫彦根命たかかもあじすきたかひこねのみことである。神様が入れ替わってしまっている。いささか不審である。続日本紀の編者も不審を感じて日本書紀に当たったのだろう。上の記事に分注で、「今前記をかんがふるに、その事を見ず」と述べている。

まあ、そんな不審を一切無視して、一言主の神の話だとすると、天皇によって土佐に流されるまでにその立場が低下したことになる。


※ なお、この不審について深く立ち入ってしまうと、私の能力では追いつかないところに行ってしまって、責任の持てないことまで言い出すかもしれない。詳細は上に紹介した國學院大學古典文化事業神名データベータを参考にご自分でお調べいただいて…と思う。


さらに時代は下る。日本霊異記にある話である。

役行者といえば不思議な力で鬼神をも操る修験の人である。この役行者が葛城山から金峰山まで葛城山から金剛山まで」と考える向きも多い。橋をかけよと鬼神たちに命じた。大変な作業であるから鬼神の不満は貯まる一方である。しかしながら役行者が怖くて誰も言い出せない。そんな鬼神の一人が一言主であった。ある日思い余った一言主は「役行者は謀反の意あり。」とお上に申し出る…

日本國現報善惡靈異記28

という話だ。ここでは一言主大神は修験者に使役される立場まで成り下がってしまっている。

ところで、この一言主大神は醜かったとの伝えがある。

やまとの国を行脚して、葛城山のふもとを過るに、よもの花はさかりにて、峯々はかすみわたりたる明ぼののけしき、いとど艶なるに、彼の神のみかたちあししと、人の口さがなく世にいひつたへ侍れば、

なほ見たし 花に明け行く 神の顔

松尾芭蕉 『笈の小文』

とは江戸時代の話であるが、この神のお姿についての言説はどうやら平安時代には成立していたようだ。

例えば平安末期成立の今昔物語集に、次のような一節がある。

鬼神等、優婆塞に申して云く、「我等、形ち極て見苦し。然れば、夜に隠れて此の橋を造り渡さむ」と云て、夜々急ぎ造るを、優婆塞、葛木の一言主の神を召て云く、「汝ぢ、何の恥の有れば、形をば隠すべきぞ。然らば、凡そ造渡すべからず」と云て、嗔て呪を以て神を縛て、谷の底に置つ。

今昔物語集巻11の3

これは上に紹介した、霊異記の話に繋がっているものである。役行者に橋を作ることを命じられた奇人たちは、自分たちの姿の醜さを恥じ、その姿の見えない夜のみ働くようにしていた。しかしながら作業が遅々として進まなかったのであろう。役行者は鬼神のうちの一人、一言主を呼び出して…と続く。醜い鬼神たちの一人として一言主はここに登場する。

暁にはとく下りなんといそがるる。「葛城の神もしばし」など仰せらるるを、いかでかはすぢかひ御覧ぜられんとて、なほ伏したれば、

『明け方の暗いうちに、早く下がろう』と気が急く。「葛城の神もしばし」などとおっしゃるので、『〔退く時に姿を〕斜めからお目にかけるようなことは〔とても恥ずかしくて〕できない。〔困ったこと〕』と思いながら、そのまま伏していると、

枕草子184

なんかも、そういった伝承を踏まえてものと思われるから、一言主の容姿についての言説は、少なくともこの時期までには一般的なものになっていたと思う。

神としての、天皇からも崇拝される対象であった一言主古事記は、いつしか天皇と同格の存在日本書紀となり、天皇に支配される立場続日本紀?となり、果てには修験者に使役され、その労苦のあまりに修験者をお上に訴える卑小な存在日本霊異記として描かれるまでに零落した。

これに呼応するかのように、古事記では、この神の姿は、めでたかるべき天皇と「相似不傾」とあり、日本書紀では「長人」と記され、たけ高き王者の風格を具えた存在として描かれていた。しかしながら、一言主大神のお姿は、次第に零落し、「老人」であったり、姿の醜い鬼神の一人にまでなりさがってしまった。

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