ふたたび葛城古道ゆく・・・九品寺

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一言主神社を離れ、一旦山麓線…県道30号線を北に上る。楢原南という交差点を過ぎてすぐ、九品寺の入り口であることを示す看板が道の右手に見えてくる。そして、そこから左…すなわち山の方に向かう道の両脇には、右に「戒那山九品寺」、左に「千躰地蔵尊」と彫りこまれた石柱が建っている。

ほんの僅かに西に斜面を登るだけで九品寺の山門に辿り着く。この寺はあの大仏造営に力を尽くした行基さんが聖武天皇の勅を受け建立された寺だ。

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この寺はあの行基さんが聖武天皇の勅を受け建立された寺なのだという。いかなる意図を持って聖武天皇がこの勅を出したのかはよくわからない。その後、いったん廃れはするが、後に弘法大師が再興させたという伝えが残る。

鎌倉時代から戦国末期にかけて、この周辺は猶原氏という豪族が支配していた。鎌倉末期には、春日若宮祭で流鏑馬を奉納するほど有力な氏族だ。この一族の城は、現在の国道24号線沿いにある鴨都波神社の西約1kmにあったが、もう一つこの城から北東へ2kmほど離れた標高320mの葛城山の東麓の丘の上に山城も築いていた。大和でも有数の山城なのだったのなと聞く。南北朝時代騒乱の際、この一族はいち早く南朝方につき、活躍していたらしいが、史書は多くを語らず、私がお話できるのはこれぐらいである。

そんな一族の菩提寺で、この寺はあった。

どちらかと言えば小ぶりの、しかしながら充分に端正な山門をくぐると、そこには見事に整備された境内がある。

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石段を上って本堂へ。本堂には木造の阿弥陀如来座像がいらっしゃる。高さ123cmの仏像は平安後期の作品で国の重要文化財だ。そのお姿はあくまでも優しく、円満で、なおかつ侵しがたい気品を漂わせている…・・・と聞くが、本堂の扉は閉ざされたまま、その御姿は拝見することはできなかった。本堂の左手にある鐘楼の梵鐘は慶弔15年(1610)の銘が付されている。他にも楢原氏の念持仏だったとされる秘仏の観世音菩薩や地蔵菩薩も見物ではあるが、この寺の名を世に知らしめているものは、本堂の裏山に並べられた無数の石仏である。

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いずれもその長い歳月を感じさせるかのように風化し、そして苔むしている。200年ほど前に境内の竹藪を掘り起こした際に、土中で見つけられたものらしく、それを一つ一つ掘り出しては今見るような形に配置したものだそうだ。寺の伝えによると、南北朝の頃、楢原城の兵士たちが自分の身代わりとして制作させ、この寺に収めたものだという。

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千体地蔵とは言っても、実際にはその倍に近い数の石仏・・・1600~1700の石仏がそこにはある。地中に埋もれたままのものが、まだまだあると推定もされており、その数たるや・・・

今は、いくつかのそれにその名残をとどめるに過ぎないが、かつてはの一つ一つが例の赤いよだれかけをつけてもらっていたということだ。ちょっと考えてもその作業量の膨大さは窺い知れる。敬服に価する・・・・というよりも、数百年前に戦いに命を落とした名もない兵士達に注がれるこの地域の人々の心に優しさに胸が打たれる。一つ一つのをつぶさに見て行けば、すべての石仏の顔が違う。 大きさも様々だ。 いつまで見ていても飽きが来ない。

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