鳥見霊畤の所在について その4

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前々回から、早川芳枝氏の「『建国の聖地』比定運動に見る統合と分裂ー鳥見霊畤の顕彰運動を一例に」(東洋大学『東洋通信』2013)という論文を下敷きに、「鳥見霊畤」をめぐっての請願運動についてざっと眺めてきた。もちろん、それぞれの候補地の人々は、それなりの根拠を以て、それぞれの主張を構成したに違いない。

けれども、それは請願運動というものの性格として、「おらが町(村)」こそが「鳥見霊畤」である…との結論ありきの主張であることは避けられない。まあ、それが人の情というものであろうから、仕方がないといえば仕方がない。だからこそここで必要なことは客観的な立場にたって、これらの候補地の可能性を見渡すことである。したがって、早川氏はこのことについての学術的な考察の流れを点検することを怠らない。

これまでと同じように早川氏のご論文により、この問題についての研究の流れを眺めてみよう以下、特別な断りがない以上、引用の形式をとる文章は同論文である。氏はここで初めて問題の一節、神武天皇4年の

可以郊祀天神用申大孝者也 乃立霊畤於鳥見山中 其地号上小野榛原下小野榛原

を引用し、まず郊祀という語に注目し中国の「歴代皇帝が行ってきた郊祀を我が国の天皇は国の初めから行っていた」ことを主張することがこの一節の主張であるとした上で、鎌倉時代末の日本書紀の注釈書「釈日本紀」が「漢書」「後漢書」に描かれた郊祀を例に説明しているとし、霊畤については同書が

漢書云 秦襄公攻戎救周 列為諸侯而居西 自以主少岷昊之神 作西畤祠

との漢書の用例を挙げていることを紹介する。

そして榛原なる語については「釈日本紀」の著者卜部兼方が自らの説として、「後漢書」において霊帝が上畤と下畤を作ったとあるのを引き合いに、上小野榛原で天神を、下小野榛原で地祇を祭ったと推測していることを紹介し、

そもそも郊祀とは都の郊外で神を祭る古代中国における祭祀だ。都の南と北にそれぞれ祭りの場を設けてそれぞれ天と地を祭る。卜部兼方はそのことを踏まえ、神武天皇が天神を待つものと地祇を祭るものがあっただろうと考えているのである。

と、「釈日本紀」の考えに対しての理解を示したうえで、

とはいえ霊畤の所在地がどこでもよかった訳ではないとして「日本書紀私記丙本」の霊畤に「祭乃庭まつりのには」、榛原に「波伊波良はいはら」との注を挙げて少なくとも平安時代には霊畤の所在地が「はいはら」ととらえられていた可能性は高い…としている。

ここからはちょいと三友亭の補足そして、おそらくは以降の注釈はこれを根拠に「鳥見霊畤」の所在を宇陀市榛原に唱えてゆくことになる。それは例えば前に紹介した

榛原ハリハラは、今世に萩原ハイバラと云驛ある是なりと云り。さもあるべし。此村長谷の東方にて、今は宇陀郡に入て、彼外山トビ村とはやゝ遠けれども、古登美といひしは、廣き名と聞ゆれば、彼驛のあたりまでかけて鳥見トミ山中と云むこと、違ふに非じ。

古事記伝十八之巻

との本居宣長先生のお言葉にも受け継がれているし、その宣長先生と交流もあったと聞く谷川士清ことすがの「日本書紀通証」にも「…城上郡鵄邑以東宇陀郡萩原而言…」との見解が示されている。補足ここまで

氏はさらに他の候補地についての可能性にも触れるが、やはり平安以降の諸注釈の支持を集める宇陀市榛原説に対しては分が悪かったとする。例として桜井市外山は「日本書紀」の天武天皇8年にある「迹見駅家」という記述、延喜式神名帳に「大和国城上郡等彌神社」とあることが根拠にあるが、それは一帯が「トミ」と呼ばれていた事実を示すに過ぎないいう。そのほかの候補地もこれに然り…

さあて、この辺りからちょいと早川氏の御論から離れてみたい。

以上により「鳥見霊畤」の比定地については、少なくとも近世以前は宇陀榛原の地がそれであったことがわかるわけであるが、近代にはいるとこれが一転する。新しいところで見ると、例えば小学館新編古典全集の「日本書紀」、

鳥見山

桜井市外山の鳥見山。垂仁記に「倭者師木登美豊朝倉曙立王」(倭は磯城の登美とみの豊朝倉の曙立王)という王が登場。この「登美」が鳥見山のある地名である。天武紀八年八月条に「迹見駅家とみのうまや)」。橿原宮の郊外で、東方泊瀬峡谷から宇陀郡への交通の要衝地。

上小野榛原下小野榛原

鳥見山のうえの小野、しもの小野の榛原で、普通名詞。宇陀郡榛原町ではない。「榛原」ははんのきの原で、ハンノキからは染料がとれる。霊畤の祥瑞として上下の小野の榛原と名付け、祭祀をしたということか。

桜井市外山説である。また最新の日本書紀の注釈書である「新釈全訳日本書紀」神野志孝光ほかでも基本的にその方向は変わっていない。

いま上述の鳥見山三友亭注 宇陀の鳥見山のあたりにこの地名を伝えない。なお、この名によって、宇陀郡榛原町を鳥見山中に擬する説が江戸時代以来行われるが、その地は外山から十キロ余もあり、古くからトミの名も伝えていないから、適当ではあるまい。

とは、以前紹介した日本古典文学大系「日本書紀」の頭注である。この書が発行されたのは昭和でいえば40年前後、今から50年と少し前である。

大和国宇陀郡榛原町大字萩原字天ノ森ノ地ハ往昔天武神武天皇ノ霊畤ヲ立テサセラレ皇祖天神ヲ祭リ以てテ大考申へサセ給ヒシ…

との宇陀榛原説側の帝国議会貴族院での請願は1906年3月27日のことであった。これに対し桜井外山説側が衆議院に訴えたのは、1909年のこと。これに対し、藤沢代議士の言として「学者間ニ於テ議論ノアルト云フ発議」があったことを見ると、この時期にはすでに、桜井外山説が宇陀榛原説に対抗しうるだけの力を持ってきたことをうかがわせる。

外山は今初瀬桜井間の小村なれど、古は忍坂路の要駅にして忍坂山を一に鳥見山と曰へるに似たり、神武紀「立霊畤於鳥見山」とある故蹟は大和志宇陀郡萩原に在りと為す、萩原は忍坂の東一里に当る、再考するに類聚三代格登美山に宗像神社在り、然らば烏見霊畤も此地にして、萩原には非じ。

とは「大日本地名辞書」の記述であるが、「大和篇」を含む第1冊が発行されたのは1900年。請願運動の始まりに6年ほど先立つ。120年ほど前のことである。

以上、ここまで4回にわたって多くは早川芳枝氏の「『建国の聖地』比定運動に見る統合と分裂ー鳥見霊畤の顕彰運動を一例に」(東洋大学『東洋通信』2013)という論文によって、「烏見霊畤」の比定地について考えの変遷を見てきた。

しかしながら多くの方は、そもそも実在の可能性の薄い神武天皇の業績をあれこれすること自体そんなに意味のあることなのかともお思いであろう。その所縁の地を求めたとしても、詮ずる所作り話ではないか…と。

まさにその通りである…が、矛盾した言い方ではあるがそんなことにこだわりぬくことは決して無意味なことではないのではないか。そもそも、意味があるとかないとか…それはいったい何を基準に、誰が定めるのか。なんて屁理屈をこねながら、次回、この続きをどうしていこうかと考えている。

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