鳥見霊畤の所在について その3

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前回は早川芳枝氏の「『建国の聖地』比定運動に見る統合と分裂ー鳥見霊畤の顕彰運動を一例に」(東洋大学『東洋通信』2013)という論文を下敷きに、「鳥見霊畤」をめぐっての請願運動についてざっと眺めてみた。これは1906年、3月27日の榛原町有志による

大和国宇陀郡榛原町大字萩原字天ノ森ノ地ハ往昔天武神武天皇ノ霊畤ヲ立テサセラレ皇祖天神ヲ祭リ以てテ大考申へサセ給ヒシ…

との帝国議会貴族院への請願に端を発する「鳥見霊畤」の顕彰の請願運動は、奈良県内の各地に飛び火し、わが町・村こそ日本書紀にある「鳥見霊畤」の所在地であるとの名乗りがあげられた。

桜井市外山、生駒郡北倭村、丹生川上、南生駒村、富雄村

これに言い出しっぺの榛原町を合わせて、しめて6カ所。

前回は申しあげたように1939年に「鳥見霊畤」現地調査は始まり、その結果報告は翌年1940年になされる。これは1941年紀元二千六百年奉祝記念事の一環としてなされた調査であって、その前年の1940年には 「神武天皇聖跡顕彰碑」が神武天皇の東征ルー ト上に19ヶ所に建立されている「平成における神武天皇一神武天皇聖蹟顕彰碑の現状」 W.エド ワー ズ『天理大学学報 2007年 58巻 2号』)。調査はこのためのものだったのである。

まさに乱立状態といった状況が呈されるに至ったといってよいであろう。

とは前回の締めの言葉であるが、さあて調査の結果は桜井市外山に利したのか、榛原町に利したのか…以下にその結果を示す。

二〇鳥見山中靈畤

神武天皇聖蹟鳥見山中靈畤傳說地は、奈良縣磯城郡城島村及櫻井町にあつて、その地域は城島村及櫻井町に跨る鳥見山附近と認められる。

日本書紀に㨿れば、神武天皇橿原宮に御卽位の後、四年二月御創業の間受けさせ給うた數々の神祐に報じて大孝を申べ給はんが爲、鳥見山中とみのやまなかの      上小野榛原かみつをののはいばら、下小野榛原しもつおののはいばらまつりのにはを立て給ひ、親しく皇祖天神を祭らせられた由が見える。鳥見山(標高約二百四十四米)の北側斜面から北方初瀨川沿岸に亙る城島村大字外山とび(舊外山村)附近は、吉野時代に鵄と稱へられた地であつて、日本書紀天武天皇八年八月の條に見える「迹見とみ驛家」の所在地に當り、「トビ」は「トミ」の轉訛と解せられる。又類聚三代格所收の元慶五年十月十六日の太政官符に據れば宗像大神社は「大和城上郡登美山」に齋き祀られた古社であり、延喜式神名帳大和國城上郡の條には、宗像神社及等彌とみ神社が見える。更に正安年間の作に係る放光寺古今緣起には「大和國城上郡登美山河邊」とあり、今の鳥見山附近は、古く「トミ」と稱へられた地と認められるが、迹見、登見、等彌は何れも「トミ」の稱呼を寫した假字であつて、それはやがて鳥見にも通ひ、鳥見山中の「鳥見」と地名を同じくするものである。此の地は橿原宮の阯たる官幣大社橿原神宮境内を距ること東方六粁餘の處にある。而して日本書紀に「鳥見山中」とあるのは、鳥見と稱せられる地の山の中と解せられるが、鳥見山附近がよく其の地形に適つてゐることは注目すべきである。

今此の地方には「上小野榛原下小野榛原」の遺名につき價値ある徴證を存しないが、鳥見山の西麓の櫻井市大字櫻井に鎭座の縣社等彌神社境内には、同社所蔵の元治元年八月の谷代官所手代辻市三郎の日記に㨿れば、鳥見山中靈畤の地と傳へられてゐたのであつて、此の山麓附近の地の由緒を物語るものとして、その所傳は尊重すべきであらう。

尚近時鳥見山の山頂に靈畤の遺阯を求める説があるけれども、價値ある徴證が存しないのみならず、日本書紀に「山中」、「小野榛原」とあるにも合しないから、此の説は適當でないと認められる。

神武天皇聖蹟調査報告p198~p208

お国の調査団はどうやら桜井市外山に軍配を上げたようである。以下2点、私なりに上の報告を読んで、生じた思うところをお示ししたい。なお、上の引用はなるべく報告書の字面を再現したつもりではあるが、やはり再現しきれないところがあるのはご勘弁願いたい。なお、当然のことながら、感想を述べるために引いて下線などは私のなしたところである。

1について

まず、「吉野時代」というのがわからない。たぶん、神武天皇が熊野に上陸し、吉野を経由し宇陀を通って大和盆地に進入したそんな時期のことか…「鵄」と来て「神武天皇」と来たならば私たちが想起するべきは「金色の鵄」。神武天皇が宿敵長髄彦ながすねひこ相手に苦戦していた時に突如現れ、その輝きを以て長髄彦側の戦意を失わせ神武天皇を勝利に導いたというあの「金色の鵄」のことである。「鵄」という地名はそれに由来する。

皇師みいくさ遂に長髄彦を撃ちて、しきりに戦へども取勝つこと能はず、時に忽然たちまちに天ひしけて雨氷ふる、乃ち金色の霊鵄有りて飛び来りて皇弓みゆみはずに止れり、其の鵄光りり煜かがやて、さま流電いなびかりの如し、是に由りて長髄彦が軍卒いくさのひとどもまどまぎえて、復た力戦たたかはず、長髄は是れむらの本の号なり、因りて亦以て人の名と為す、皇軍の鵄瑞を得るに及びて、時の人仍りて鵄邑とびむらと号く、今鳥見とみと云ふは是訛れるなり

日本書紀 神武天皇 即位前

けれども、「金色の鵄」の出現地については、この報告自体は別の場所生駒市上町を指定している。このあたりの報告者の意図が少々疑問に思う。無理に整合性を取ろうとすれば、この「鵄」という地名は、神武伝説とは無関係のものとしなければならない。

2について

「とみ」という地名については古くからの文献にあちらこちらで見かけられる桜井市外山説であるが、この「『上小野榛原下小野榛原』の遺名につき價値ある徴證を存しない」ことが、最大の弱点であった。この点を補強するのが、谷代官所手代辻市三郎の日記の次の記述であろう。辻は塩屋庄五郎の言として、

この邊は一體に榛の木原にて今之様なる物ニ而ハなし 聞傳るに寺川左右ハ大ゐなる谷間ニ而七八分も榛の木原ニ而中に者道らしきもあれハ又石づたいニ而歩ミたる所もありて石路と云う字もあり(原文)

この辺は一帯にはんの木原にて今のようなる物にてはなし。 聞き伝えるに寺川左右は大いなる谷間に面七八分も榛の木原にてには道らしきもあれば、又石づたいにて歩みたる所もありて、石路と云うあざもあり。(三友亭)

※ 寺川…桜井市内を流れる河川。多武峰より流れ下り大和川に合流。

外山の辺りはかつて「榛」の林であった。だからこの辺りを「榛原」と言うんだ…という話である。さらに岡本桃里という人の言葉として

如何ニモ榛之木原に間違なかるへし 榛原とゆう字残れり 今誤而榛分けと云うへり 其證據ニ者榛り分けニ居りし家ハ榛原と云う苗字ありて二三ありしなり 當村ニもあれハ近頃上之宮村へ移轉せし者も榛原氏なり(原文)

如何にも榛の木原に間違なかるへし。榛原とゆう字残れり。 今誤りて榛り分けと云へり 其の證據には榛り分けに居りし家は榛原と云う苗字ありて二三ありしなり。當村にもあれば近頃上之宮村へ移轉せし者も榛原氏なり。(三友亭)

※ 榛り分け…かつてこの周辺に存した地名か?

塩屋庄五郎さんのお話を「如何にも」と受けて肯定し、榛原という字が残っているとまで言っている。ただし、その榛原と云う地名は土地の人々に誤って伝わり、今は「榛り分け」と言っているのだという。そしてその証拠として「榛り分け」には榛原を名乗る家があるのだという。「榛り分け」という地名は残念ながら私は見つけることができなかったので、実際に今のどこにあるのかはわからない。外山周辺のどこかなのだろうと思う。

とはいえ、この日記が江戸時代もほぼ終わりかけている頃の記録であり、塩屋さんにしろ岡本さんにしろ「榛之木原」が「あった」と言っているだけで、実際にあるものを根拠としているわけではない。「榛り分け」という地名にしろ「はりわけ」というその音で考えると可能性としてはもともとは「り分け」であった可能性がなくはない。むしろ私はその方が可能性が高いと思う。伝承は伝承つぃて尊重するべきではあるが、この日記の記録が桜井市の鳥見山に「鳥見霊畤」あったということを動かしがたい事実であるとは証明しきれる確証とは私には思えない。

ただ、先日の、

「鳥見とみの霊畤まつりのには」の所在について…なんてことを考えてみたいと思う。 むろん、そんなにちゃんとした考…

にお寄せいただいたコメントに外山と隣接する薬師町界隈に「萩原」の姓が多いことを教えていただいた。「ハギハラ」も「ギ」が音便化すれば、「ハイバラ」となる。これは本来「ハリハラ」である榛原が「ハイバラ」とよまれていることと理屈は同じである。岡本桃里さんのお話と合わせて考えた時まことに興味深い事実である。

なお、同報告書においては他の候補地についても一応は取り上げ、一つ一つが適切ではないとの判断を下している。この方奥署が候補地として他に調査の対象としたのは以下のごとし。

宇陀郡榛原町、生駒郡富雄町大字二名、生駒郡富雄町大字中、生駒郡富雄町大字石本、 生駒郡南生駒村、山邊郡丹波市町、吉野郡小川村及高見村、高市郡新澤村

いずれも「價値ある徴證はないのである」とばっさりと切り捨てられている。唯一、比較の対象となっているのは宇陀郡榛原町の鳥見山で、いくつかの古い文献にあたりながらも、この地の表記としては萩原の方が正当で、これを「ハイバラ」と訓んでいた例はあるも、あくまでもそれは「ハギバラ」の音便であり、萩原=榛原の証拠とはならない。さらに現在の榛原と云う町名は明治23年の市町村合併によって生じた町名であって、この地が古くから榛原と呼ばれていたことにはならない…というのだ。

かくして神武天皇の聖蹟は桜井市外山と定められ、その顕彰碑は等彌神社にほど近い場所に建てられた。この報告に対し、早速榛原町は異を唱える声を上げた。1941年10月の「敢て天下の識者に問ふ」と題する小冊子である。そしていまだ引き下がることなく、今もなお榛原の鳥見山を今もなお正当な「鳥見霊畤」であると訴え続けている。

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コメント

  1. 玉村の源さん より:

     なかなか難しい問題ですね。
     さらに続くのですね。楽しみにしています。(^_^)

     「吉野時代」というのは、南北朝時代のことと思いますが、いかがでしょうか。

    • 三友亭主人 より:

      源さんへ

      >なかなか難しい問題ですね。

      いやあ、なかなか面白くなってきました。あと2回は続くような気がします。

      >「吉野時代」というのは、南北朝時代のことと思いますが…

      そうですよね。神武天皇っていうからついついそっちの方は忘れていました。そう思って調べると・・・孫引きですが

      閑地井城 安房城 鵄城 赤尾城 外鎌城 没□□□(落之時?)致軍忠畢
      渡邊源四郎實軍忠状「蠧簡集残編」

      ってのが出てきました。なんでも南北朝時代、南朝側に三輪西阿(玉井西阿とも開住西阿とも)という国衆が桜井にいて、その西阿が近辺に築いた6つのお城(砦程度でしょうが)のうちの一つが「『鵄』城」と表記されているようです。

      多分、これのことなんでしょうが、恥ずかしながら、当該箇所を見つけることができませんでした。