廣瀬社に行く

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この前の週末の昼下がり、馬見丘陵の東で葛城川・高田川を合わせた曽我川が大和川にそそぐ当たり…かつて広瀬野と呼ばれた地にいた。正確な地名は奈良県北葛城郡河合町川合99。その地名が示す通り、この辺りは奈良県内のほとんどの河川が合流し、一つ(大和川)となり、これから県境の信貴山と明神山の間を抜けて河内平野へと抜け出ようとしている場所である。

したがって土地は低く平らかである。かなり以前「古奈良湖」なんて話をしたこともあるが、おそらくはその最深部なのだろう。それはすなわち、この地域が現在の大和盆地の一番低い場所であるというのと同じ意味である。その証拠にこの近辺に奈良県の浄化センターが二つも位置している。

それはともかく…

その平らかな土地の真ん中に、こんもりとした林が見える。私がいたのはその林の中である。

狛犬さんがいるからは、ここは神社の参道。ずうっと奥に赤い鳥居はちらりと見える。この場所は長い参道のほぼ中間地点。林のはずれにある一の鳥居から もう200m近くは歩いている。途中、いったいいつからこの地に生をなしているんだろうと思われるほどの巨大なケヤキが数本。ちょいと暑い日ではあったが、参道の中はひいやりと静まった空気が漂っている。

そして一分と少し。私は二の鳥居の前に立った。

扁額には「廣瀬社」とあるホームページには「廣瀬大社」とあるが、以降はこの扁額通り廣瀬社と書くことにする

廣瀬社の創始は古く、その名が初めて史書に見えるのは、天武天皇の4年4月10日、

小紫美濃王、小錦下佐伯連廣足ひろたり、をまだして、風の神を龍田の立野にまつらしむ。小錦中間人はしひと連大蓋、大山中曾根連韓犬からいぬを遣して、大忌神おほいみのかみを廣瀬の河曲かはわに祭らしむ。

日本書紀

今は廣瀬社の話をしているのだから、龍田の話は余計だろう…とお思いになった方もいらっしゃると思う。けれども、この二つの社は切っても切れない…そんな扱いを天武天皇はしている。いわゆる大忌祭で、この二つの社は以降朝廷により、以後年に2回4月と7月祀られ続ける。

ー大忌祭ー

奈良県北葛城郡河合町川合の広瀬神社で、8月21日に行われる年穀豊穣祈願の祭り。もとは4月と7月の各4日に、広瀬神社と龍田大社(生駒郡三郷町立野)で同時に行った。古くから広瀬神社は水の神、龍田大社は風の神として、両社並び称され、五穀豊穣の守護神として信仰された。『令義解』巻2「神祇令」に「大忌祭、謂広瀬竜田二祭也、欲令山谷水変‐成甘水、浸潤苗稼、得其全稔、故有此祭也」とある。『日本書紀』天武天皇4年(675)4月条に両社祭祀の記事がみえ、その起源もこのころに想定される。しかし、『延喜式』巻2「四時祭式」には「大忌祭一座、広瀬社、七月准此」とあり、平安時代にはすでに広瀬神社で7月に行われるだけになった。

日本大百科(不必要なフリガナは省略した)

「4月と7月の各4日」とあるが、実際の日付は以下のごとし、日本書紀を天武紀・持統紀見る限りではあまりこだわっていないように見える。ただ、さすがに実施の月だけは、厳密に4月と7月が守られれおり、これは田植えと収穫の時期を意識したものであること言うまでもない。

ちょいと気になるのは、天武天皇の13年7月4日の「廣瀬にいでます。『日本書紀』」という一節。その直後に「戊午に、廣瀬龍田の神を祭る」とある。

天皇がわざわざ廣瀬龍田の神祭りに参加するためにわざわざ「廣瀬に幸ま」したとも考えられるが、その日から神祭りの日までは5日もあることを考えれば、日帰りもできるような場所に5日間も天皇がこの地に滞在したとは到底思えない。とすれば、何のために天皇はこの地に幸ましたのか。

実は天武天皇はこの前にも一度廣瀬を訪れようとしたことがある。天武天皇の10年10月のことである。

天皇、廣瀬野にけみしたまはむとしこれはて、行宮かりみやつくおはり、装束よそひ既に備へつ。しかるに車駕、遂に幸まさず。

日本書紀

この時は準備のみで実際には出かけなかったようではあるが、どうも天武天皇はこの地域を少々気にしているようではある。その理由はどこにあるのか…私のようなものが考えたところでろくな考えが浮かぶはずもないが、これからの一週間の宿題として考えてみたいと思う。

それはそうとして、このお社の参道を歩いているときちょいと珍しいものを見つけた。

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コメント

  1. 玉村の源さん より:

     恥ずかしながら、私はまだ広瀬へも龍田へも行ったことがありません。
     龍田は、去年学会が開催されていれば行ったかもしれなかったのですけど。

     空中写真、何本もの河川がここに集まっている様が手に取るように分かりますね。
     「広瀬野」「河合町」「川合」という地名も、とてもよく納得できます。

     日本大百科の説明は不審でしたので、延喜式を見てみました。そうしたら、次のようにありました。所在は巻2ではなく、巻1です。

      四月祭
      三枝祭三座率川社
      ……(中略)……
      大忌祭一座 [広瀬社。七月准此]
      ……(後略)

     「四月祭」の項に載っていて、そこに「七月准此」とあるわけですから、つまり4月と7月と両方に広瀬社で大忌祭が行われるわけですよね。
     日本大百科のあの項の執筆者はどうも史料が読めていないようです。

     ま、あんまり人のことをあげつらうと、我が身にも降りかかってきます。(^_^;

    • 三友亭主人 より:

      源さんへ

      やっぱり「4日」はおかしいですよねえ。
      それにしてもわざわざ引用の部分の確認をしていただいてありがとうございます。

      それにしても去年の学会は私にとってもとても残念でした。おまけに去年も今年も1日旅行の方も飛んじゃいましたからねえ・・・三輪山セミナーの方も中止されているし・・・