今回も前回に引き続いて榛原駅前宇陀市観光案内マップより。
マップ上部より行くとまずは伊那佐山。
同名の山は各地にあるが、文献にその名が記されたのは間違いなくこの宇陀の伊那佐山である。
たたなめて 伊那佐の山の 木の間ゆも い行き守らひ 戦へば 我はや飢ぬ しまつ鳥 鵜飼が徒 今助け来ね
(たたなめて)伊那佐の山のの木の間から相手を見守って戦ったので、腹が空いた。(しまつ鳥)鵜飼の仲間よ、今すぐにでも助けにきてくれ。
日本書紀によれば、その東征の際、神武天皇は熊野より大和に入ったことになっているが、すぐには国中には入らず、まずは山間地を押さえてから国中に入ろうとし、転戦していた。戦士たちが飢え疲れ果てたとき、神武天皇が一同の士気を高めるために応対になった歌だという。
続いてすぐ左の八咫烏神社。
これもまた神武天皇がらみの神社であること、我がブログにおいでいただいていただいている方々には改めて説明するまでもないが、けっして日本サッカー協会のシンボルとして生まれたものでものではないことだけは申し添えておく。同じく八咫烏を神としてまつる神社はいくつかあるが、この宇陀の八咫烏神社は文献に現れる限りでは最古のものらしい。
丙戌 置八咫烏社于大倭國宇太郡 祭之
続日本紀慶雲二年九月
次は文祢麻呂の墓。
文祢麻呂(書根麻呂)は飛鳥時代の人物で壬申の乱の際に大海人皇子について活躍した武人。墓は天保2年に当地の農夫によって発見されたという。こちらについては私のつたない説明よりもこちらを参照していただきたい。
ここもまた以前レポートしたことがある地。その後再訪し、新たな知見を得たならばここで詳述する必要もあろうが、その後一度もこのお社にはお参りしていない。したがって・・・ここもまた以前書いた物を紹介しておくにとどめたい。
ご承知の通り神武天皇はと日向の国より東征し、大和を目指した。難波津まで船を進めた神武天皇は生駒山を越えて大和へと攻め込む。が、大和の豪族長髄彦の反撃を受け撤退。紀伊半島沿いに南下し、熊野に上陸し、そこから大和を目指す。神武天皇は、天照大神によって遣わされた八咫烏を先導とし吉野を経て宇陀へと至る。その宇陀で神武天皇を待ち受けていたのが兄宇迦斯、弟宇迦斯(『日本書紀』では兄猾、弟猾)の兄弟。徹底抗戦をもくろむ兄宇迦斯を裏切り、神武天皇に服従を誓ったのが弟宇迦斯。
その兄宇迦斯は策謀をもって神武天皇を無きものにしようとするが、弟宇迦斯はひそかにそれを神武天皇に伝える。以降、どのようなことがあったのかは残酷に過ぎ、私の筆ではとても伝えられない。ご興味のある方は直接古事記なり日本書紀なりにあたっていただきたい。ただ今も名を当地には血原なる地名が残っていることだけお伝えしておく。
かくして神武天皇は宇陀の地に確固たる拠点を築く。
宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る
前妻が 菜乞はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね
後妻が 菜乞はさば いちさかき 実の大けくを こきだひゑね
ええ しやこしや こはいのごふぞ ああ しやこしや こはあざわらふぞ
宇陀の高城に、鴫を獲ろうと罠を張る。私が待ってる鴫は掛からず、りっぱな鯨が掛かった。
古女房がおかずに欲しがったら、ソバの実の中身の無いのを、たっぷり切ってやれ。
新しい女房がおかずに欲しがったら、ヒサカキの実のように大きいのを、たっぷり切ってやれ。
ええい、ばかものめざまあみろ、これはののしっているのだぞ。
あっはっは、ばかものめざまあみろ、これは嘲笑っているのだぞ。古事記 神武天皇
この歌は、神武天皇が兄宇迦斯を倒したあとに、弟宇迦斯によって献上された御馳走を兵士らに賜わった時に詠んだ歌。歌中の宇陀の高城は後代の城と呼べるほどのものではなく、もう少し簡単なものであっただろうとは思う。菟田野佐倉の「高かき」という小字がある山頂、または榛原内牧にある高城岳をにあてる説があるが、地形や地理から考えると、菟田野佐倉の山が有力で、上のマップもその説によっている。
さあて、この宴の後、神武天皇は吉野川流域の諸豪族を従え、ふたたび宇陀へと戻る。そして神武天皇は、宇陀の高倉山に登ってこの地域の様子を山頂から眺める。
それが・・・
さて、写真下部には神武天皇が何やら遠くをお眺めにあっている。見るとちょいと高いところにおられるようだ。
である。そこから見ていたものは・・・
これを語りだすとちょいと長くなる。であるから、その先を知りたいとお思いになる皆様は・・・少々不親切ではあるが・・・古事記やら日本書紀やらをお読みになっていただければと思う。
だって、私のつたないお話を読んでいただくよりも絶対その方が面白いんだもん・・・(笑)
ちなみに神武天皇の多々愛はまだまだ続く。そんな折に兵士たちが飢え、疲れ苦しんだ際に一同の士気を高めるために歌った歌が・・・一番上の
たたなめて 伊那佐の山の 木の間ゆも い行き守らひ 戦へば 我はや飢ゑぬ しまつ鳥 鵜飼が徒とも 今助すけ来ね
である。
コメント
「宇陀の高城に……」は全体に不思議な歌で、第一日本語がよくわかりませんので(笑)、まるで判じ物ですね。しかしもっとも驚いたのは「鯨」が登場することです。
鴫を狙ったら鯨が獲れたというのは、たぶん期待以上の戦果があったことをいうのかと想像しますが(?)、神武天皇さんも鯨の刺身を召し上がったことがあるんでしょうか? いろいろと想像が膨らみますね。
薄氷堂さんへ
クジラはねえ・・・ちょいとわかんないですね。
手元の注釈書を見ると、「鷹」を古語で「鷹(くじ)ら」と言ったって書いてありますが、これは注者が、こういう説もあるといっただけで、注者自身もすっきりしないと言っています(古典大系)。だいたいにして「鷹」が祝勝会のごちそうってのはどうも落ち着きを感じません。
これは宴会なのだからついつい大言壮語も出そうなもの。なにせ大物(強敵)を仕留めた後ですからね。その強敵を
仕留めた大物をくじらになぞらえたものかもしれません。そしてその突拍子のないたとえに一座は爆笑ってな感じでしょうか(古典集成)。
>神武天皇さんも鯨の刺身を
そういえば最近トンとお目にかかっていないなあ。