春日神社をあとにした私達が次の目指すのは、白山比咩神社である。その途次にこんな歌碑があった。
夕されば 小倉の山に 伏す鹿の 今夜は鳴かず 寝ねにけらしも
と刻んであるのだそうな。万葉集の巻の九/1664番、雄略天皇の御製である。
夜になると小倉の山にいつも伏している鹿は今夜は鳴かない。もう寝たのらしいな…ほどの意味。
3句目の原文は、「臥鹿之」とあり、その訓みには、「ふすしかの」、「ふすしかは」、「ふすしかし」と三つの説がある。「之」の文字をどう読むかで説が分かれているのだ。いずれが正しいかなんてことを言い出したら結構手間がかかることになるのでここでは省略。ここでの先生のお話もこの点については触れられてはいなかった確かここでお話を聞かせてくださったのは影山先生???ちょいと記憶が怪しくなってきた。
先生のお話の中心は、「今夜は鳴かず 寝ねにけらしも」の部分をどう理解するのかということ。鹿が泣くのは妻問いであるから、鳴かずに寝てしまったということは、妻問いに成功した雄鹿が妻とともに寝ているだろうな…という理解ができる。
旧来、この点について野に起居する鹿にまで思いを馳せる優しく細やかな雄略天皇の御心を称えるようなものが目に付くが、先生はその点を踏まえ、帝王たる雄略にとって、その広大なる慈愛を注ぐ対象は、人のみならずこの世のありとあらゆる存在であり、ここではその対象が鹿であったのだと言うようなことをおっしゃっていたような気がするここはちょいと記憶が定かではない。
ところで、実はこの歌とよく似た歌が、舒明天皇の歌として巻の八の1511番にある。
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝ねにけらしも
がそれだ。違いはほんの僅かである。どっちかがどっちかをパチった…なんて考えられないこともないが、これは雄略天皇と舒明天皇の在世の順番を考えれば、雄略天皇の御製を舒明天皇がパチったとしか考えられない。ただ、「伏す鹿の」という句と、「鳴く鹿は」という句を比べた時、「伏す鹿の」という句が、「鳴く鹿の…今夜は鳴かず」という繰り返しを避けるための改変であると考えられることから、舒明天皇の御製のほうがより古体であるとの考えが一般的だ。
それぞれの御製の作者の年代と、作品としての新旧のありようが齟齬している。この点をどう理解するべきか…
1664歌の左注に、
右は、或る本に云はく、「崗本天皇の御製なり」といへり。正指を審らかにせず。これに因りて以ちて累ねて載す。
※崗本天皇…舒明天皇、あるいは皇極天皇
とあり、ようは万葉集の編纂者もよくわからないと言っている。私になどわかるはずがない…なんてことをいったらみもふたもない。
…実はここまでの部分は3日前までには書き終えていた部分である。ここまで書いて、1511番舒明御製と1664番雄略御製との関連についてはいろいろと言われていたなあ、なんて思い出し、これはきちんと調べて書かなければいけないなと思い調べ始めようとしたが、どうにも先に進まない。
いつまでもこの歌にこだわっていては、この万葉ウオーキングはいつ終わるのかわからない。それに、万葉ウオーキングのあった日から一月以上も立ち、ぼちぼち記憶もあやふやになってきた。この日のことについて書くことはなるべく早く終わらせないと何がなんだかわからないことを書いてしまいそうな気がする。
てなことで、ここは涙をのんで先に進むことにする。
やってきたのは白山比咩神社。ここは以前このブログで詳細に報告したことがある。
ところでこの御社があるのは桜井市黒崎という場所。長谷参りの道すがらでもあり、伊勢へと続く道の途中でもある。そんな場所である以上多くの人がここを行き来した。人の行き来の多い場所には商売が発生するのは必定である。
黒崎ㇵ街道にして名産の饅頭を売る家多し。長谷寺より半里ばかり此方に黒崎村といへるありて此里の名物と手饅頭を二ツあはせこれを女夫まんじゅうとて商ふ家多し。黒崎といへども白きはだとはだ、合せて味ひ夫人饅頭
とは、西国名所図会の言葉。先生はこの日の資料にあったこの一文に解説してくださりさらに、この「黒崎饅頭」復元のプロジェクトについても教えてくださった。
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