つま呼ぶ声を 聞くがともしさ

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先日、私に住む桜井から宇陀へと抜ける峠道の途中にある、吉隠よなばりという里について書いた。そこで、穂積皇子の、

但馬皇女たじまのひめみこの薨じて後に穂積ほづみ皇子、冬の日雪の降るに、御墓を遙かに望み、 悲傷流涕して作らす御歌一首

降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養ゐかひの岡の 寒からまくに

(二・203)

という歌と、穂積皇子の晩年の妻であった、大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめの、

跡見とみ田庄たどころにして作る歌(二首のうち一首)

吉隠の 猪養の山に 伏す鹿の つま呼ぶ声を 聞くがともしさ

(八・1561)

という歌を紹介した。そして、その上で跡に続けて、

彼女は今吉隠に近い「跡見の田庄」にいる。聞こえてきたのは「猪養の山」の鹿の妻問いの声である。そこに眠っているのが但馬皇女であるとするならば、その皇女を恋うて泣いているのは誰か…

…ちょいと興味深い。

と書いた。しかしながら、これでは分かる人にだけ分かる書き方で、少々不親切かなと思うに至った。もうちょっと詳しく話してみたいと思う。

まずは、穂積皇子の歌から。題詞にある但馬皇女とは穂積皇子が若い頃に浮名を流した相手とされる

但馬皇女の高市皇子の宮にいます時、穂積皇子を思ひて作らす歌一首

秋の田の穂向きのよれる片寄りに君によりなな言痛こちたかりとも

二・114

秋の田の稲穂が一つの方向に向いているように、私はひたすらあなたの方に寄りかってしまおう。世間の評判がいくらうるさくとも。

穂積皇子にみことのりして、近江の志賀の山寺に遣はさるる時、但馬皇女の作らす歌一首

おくれゐて恋ひつつあらずは追ひしかむ道の隈廻くまみに標結へ我が

二・115

後に残って恋しがっているよりは、いっそ出掛けて行ってあなたに追いつきたい。道の曲がり角ごとに、目印を結びつけておいて下さい、あなた。

但馬皇女の、高市皇子の宮にいま)す時、穂積皇子にひそかにひ、事すでにあらはれて後に作らす歌一首

人言ひとごとをしげみ言痛こちたみ生ける世にいまだ渡らぬ朝川渡る

二・116

人の評判が余りうるさく煩わしいので、生まれてこの方経験したこともない程、衣に袖を濡らしています。

あまりにも有名な三首である。214番の題詞に、「但馬皇女の高市皇子の宮にいます時」とあるが、これは但馬皇女が高市皇子の妻であったことを示すとされている。その皇女が、「穂積皇子を思って歌ったのだというから、ことは穏やかではない。高市皇子は時の太政大臣おそらく。持統天皇の治世にあって、天皇に次ぐ地位にあった人物である。今の世で行ったら、総理大臣かそれの準じる人物。その妻である但馬皇女が他の若い皇子に恋をしたというのであるから、ちょいと世間は騒がしくなる。持統天皇はことの収拾のためか、穂積皇子を、「近江の志賀の山寺に遣は」して、二人を引き離そうとする。しかし、皇女は少しもひるまない。それが215の歌である。そして、216番歌。

これほどの恋歌を寄せられた穂積皇子はいかにその思いに応えたか。少なくとも万葉集は、但馬皇女の情熱に応えるだけの歌を穂積皇子が残した形跡を示さない。

万葉集に残る皇子の歌で、但馬皇女の存命中のものは次の2作である。

穂積皇子の御歌二首

今朝の朝明あさけ雁が聞きつ春日山もみちにけらし我が心痛し

八・1513

今朝の明け方、雁の鳴き声を聞いたなあ。きっともう春日山は紅葉したことだろう。私の心は感じやすくなり、胸苦しい思いがする。

秋萩は咲くべくあらし我がやどの浅茅が花の散りゆく見れば

八・1514

野の秋萩はそろそろ咲く頃だろう。私の家の庭の茅花が散ってゆくのを見れば。

「我が心痛し」という一句に、但馬皇女とのあれこれに心を悩ます苦しさを込めている…とも取れないことはないが、このあと、万葉集では、

但馬皇女の御歌一首 一書に云はく、子部王の作

言しげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを

八・1515

人の評判がやかましい里に住むくらいなら、今朝鳴いた雁といっしょに行ってしまえばよかった。

と続ける。先に示した但馬皇女の三首は相聞に配置されている。純然たる恋歌である。しかしながら、この3首が置かれているのは雑歌の部分である。雑歌とは相聞・挽歌以外の歌で、旅の歌や宴の場面での歌が多い。したがって、1513と1514の穂積皇子の歌も、1515の但馬皇女の歌もそのような歌と理解するほうが真っ当な理解であると言える。だから、1515番歌は穂積皇子の2首に但馬皇女が応えたものと理解することは少々難しい。

しかしながら、わざわざ穂積皇子と但馬皇女の歌を並べて配置したということは、万葉集の編者にはそのように読めと私達に促しているように思える。そしてその意図通りにこの3首を読んだとき、煮えきらない態度を示す穂積皇子と、その尻を叩く但馬皇女の姿が見える。

おそらく、穂積皇子の思いはやはり但馬皇女にあった。しかし皇子がその思いをはっきりと示したのは、皇女の死後であった(二・203)・(十六・3816)。皇女の存命中の皇子は、皇女の歌に直接応えることはしていない。そこには彼の性格にあったのかもしれないし、あるいは皇子の立場がそれを憚らせたのかもしてない。すくなくとも、万葉集の編者は私達に二人の関係はこのようなものであったと考えるように促しているのではないか…

…ということを前提にすると、坂上郎女の「跡見の田庄にして作る歌」は、まことに味わい深い歌のように私には思えてくる。

まず、穂積皇子と但馬皇女の関係があったのは当然高市皇子存命中のことでなければならない。とすればそれは、696年以前のことでなければない。坂上郎女が皇子の妻となったのはいつからか定かではないがそれどころか郎女の生没年さえ不明である、日本百科全書に以下のような記述を見つけることができた。

(坂上郎女は)出生は696年(持統天皇10)ごろか。13歳ごろ穂積皇子に嫁したが、20歳ごろ死別。

日本百科全書「大伴坂上郎女」の項にある鈴木日出男の説明である。不勉強な私には、この推定が鈴木氏のお書きになった論文のどこかに書いてあるものなのか、それとも氏が他のどなたかの考えを採用なされたのかさえも知らない。しかしながら、ここは一旦、この推定に従って考えてみることにする。

穂積皇子が世を去った715年に20歳前後ということになるから、郎女が皇子の妻となったのは708年ごろのこと。708年は但馬皇女が世を去った年である。となれば、穂積皇子が、「但馬皇女の薨じて後に穂積皇子 冬の日雪の降るに御墓を遙かに望み 悲傷流涕して作らす御歌」を読んだのはその冬以降ということになる。つまり、皇子がこの歌を詠んだのは郎女を妻に迎えて以降のことになる。

まだ幼かったであろう郎女の目に、老いた夫の、若き日の恋はいかに映っただろうか。

てなふうに考えるのは、あくまでも上の鈴木氏の年齢推定に従ったうえでとの条件が付くし、少々ロマンティックに過ぎる創造であるようにも思える。

が、現在の万葉集の巻の八の形態は、その元資料の結構な部分が大伴坂上郎女の許にあったであろうことを推測させることから考えると、…1513から1515というように穂積皇子と但馬皇女の歌を並べて配置したのは郎女の手によるものと考えられる可能性はそんなには低くないと考える。

穂積は幼い妻に、自分の若き日の恋をどのように語ったのだろうか?

ふとそんなことを考えてしまう。いや…ひょっとしたら語ることがなかったのかもしれない。けれどもそれでも夫の若き日の恋の話はどこからか彼女に入ってきたに違いない…てなことを考えたときに、ちょいと気になってくるのが1561番歌である。面倒くさがらずにもう一度お示ししよう。

跡見の田庄にして作る歌(二首のうち一首)

吉隠の 猪養の山に 伏す鹿の つま呼ぶ声を 聞くがともしさ

(八・1561)

この1561番歌の直後には、その甥である大伴家持のいろんな女とのやり取りが配置されていることを考えると、坂上郎女のこの歌が詠まれたのは、それとほぼ同時期…家持があっちこっちの女と関係を持ち始めるにふさわしい年齢に達したころと考えることが自然であろう。家持が生まれたのは718年のこととの考えが主流であることを考えると、それは730年代半ばということになる。

坂上郎女からしてみれば、最初の夫である穂積皇子が世を去って20年ぐらいは立ったことのことである。郎女は自らが果たす大伴家の家刀自の任を果たすために「跡見の田庄」に入る。そこで「吉隠の猪養」に鳴く鹿の声を聞く。

跡見は現在の桜井市外山。外山から吉隠までは結構距離があるし、間に初瀬が挟まっている。それだけの距離を挟んで鹿の声が…とは思えるが、かつては、もう少し跡見の領域は広く、桜井市の鳥見山(245m)の北麓から、その東方の宇陀市榛原の西峠にかけての初瀬川・吉隠川流域の地をさしていたという「角川日本地名大辞典」

坂上郎女は鹿の声を聞いて思う。方角は、亡き夫のかつての思い人である但馬皇女の墓のある辺り。そしてその場所で妻問いの声を上げる鹿…郎女はそこに亡き夫の姿を見たのではないか。しかも、しかもその夫が恋い慕い声を上げている相手は自分ではない。

結句「ともしさ」にはそんな坂上郎女の複雑な気持ちが込められている…

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