阿騎野人麻呂公園へ行ったわけ

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先々週であったか、宇陀市は阿騎野のあたりに行った話をした。

大和おいて、殆どの場所で桜はもうその盛りを過ぎた。あとは八重の桜やチラホラと咲き残った山桜が見られるのみである…
ほんの10数分のことであるが、通勤の途次わざわざ遠回りしてこの地を訪れた理由についてその時には言ってなかったと思う。今回はその理由について記してみたい。

話はちょいと遡る…2月から3月の終わりにかけて、いささか妄想めいた記事を皆様にお示ししていた

前回は ここまで考えてきて、ちょいと「あれ?」と思うことがあった。今回述べたことと直接かかわることもあるし、そ…
から
とはいえ、これは天武天皇と国栖の地とのかかわりを語る伝承を信用すれば…という前提付きであろうからそんなに当てに…
にかけてである。

  •  以上の記事に登場する天武天皇はこのとき即位はしていなかったので正確に言えば大海人皇子とするのが正しいが、便宜上天武天皇で通した。以下もこれに倣っている

そこでは、壬申の乱に際しての天武天皇の吉野脱出に際してのアレコレについての妄想を皆様にお付き合いいただいたわけであるが、そこで述べたことの可否はともかく、天武天皇は無事に吉野を抜け出し、宇陀へと入った

その宇陀で、最初に出てくる地名が、阿騎野なのだ。

卽日そのひ菟田うだ吾城あきに到る 大伴おほとものむらじ馬來田まぐた 黃書きふみのみやつこ大伴おほとも 吉野宮より追ひてまうけり。此の時に 屯田みたの司の舍人とねり 土師はじのむらじ馬手うまて 從駕者おほみともにつかへまつるひとをしものたてまつ

日本書紀 天武天皇元年

吉野の宮滝を出発点として、菟田宇陀の吾城阿騎野まで、入野しおの峠を越えたとして20kmほど。あくまでもグーグルマップが示した数字であるが、途中、現在はトンネルで抜けるはずの部分を峠越しているはずだから、今よりも時間はかかるとして頑張れば半日の行程だろう。そろそろお腹の空いてくる時分である。

とはいえ、この地にて食事を取ったのはそれだけの理由ではない。上の引用文に食事を提供したものが「屯田の司の舎人土師連馬手」とある。「屯田」とは

令制前、大王の御料田。大宝令制では畿内の諸国に置かれた天皇の供御のための百町の田。宮内省が管轄し、農民の徭役により耕作された

精選版 日本国語大辞典

もので、いわば天皇家の直轄領である。天武天皇はこの時まだ即位してはいないのだから皇子ではあったが、皇族であることには変わりない。その皇子から食を提供せよと言われたならば、その命に従うのが当然とも言えようが、時期的なことを考えると簡単には行かないような気もする。

時間をちょいと遡ってみる。そもそも、兄である天智天皇の病の快癒を願って出家し吉野に籠もった天武天皇がなぜ吉野の脱出をしなければならなくなったのか。

ご承知の通り、天武天皇が吉野に籠もったのは、天智天皇の病の快癒を願ってだけのものではけっしてなかった。前年の秋、天智天皇が病の床の人となった頃、皇位の継承を巡っての不穏な空気が近江の都に漂い始めていた。それまで皇位継承を約束されていたかに見えていた天武天皇をなきものにし、天智天皇の息子である大友皇子を即位させようとする一派が力を伸ばしていた。このことを察した天武天皇はその難を逃れる地として吉野を選んだのであった。

しかしながら、近江の都の彼らは、邪魔者が吉野に去ったことを以て安心するわけには行かなかった。そのうちの一人は言った、「虎に翼を着けて放てり」と。彼らはなんとしても天武天皇をなき者にしなければ枕を高くしては寝られない…

以下は脱出前に天武天皇に入っていた情報である。

  1. 天智天皇の陵を作ると称して人足を集め、それぞれに武器を持たせている。
  2. その2つ目、近江から大和に到るまで監視の兵が置かれ、近江より吉野へと食料が送られるのを止めようとしていた。

じわりじわりと吉野包囲網は狭まっていた。当然のことながら、そのような司令は大和各地の屯田にも伝わっていたと考えるほうが自然であるというものだろう。だとすれば、ここで「屯田の司の舎人土師連馬手」が天武天皇の一行に食事を供したということは、その司令に背いたことになる。さらに想像をたくましくすれば、天武天皇の一行は吾城の屯田をすでに味方に加えていたことになる。

天武天皇は、なんの準備もなしに吉野を脱出したわけではなかった。

吉野を脱出したこの日は6月24日であったが、それに先立つ6月22日には村国むらくにのむらじ男依おより和珥部わにべのおみ君手きみて身気むげのきみひろ等に以下のような命令を下す。

  • 美濃国に行き、安八磨あはちまの郡にある自分の食封おほのおみ品治ほむぢに機密を伝え、その地の兵を集めるように指示すること。
  • 諸国の国司たちに、速やかに軍勢を発し不破の関を塞ぐように指示すること。

手はすでに打ってあったのだ。おそらく、村国連男依等一行が美濃及び諸国の国司たちに向かった道筋は、天武天皇がこれから通ってゆく道筋と大きくは違わなかったであろう。そして、その所々に置いて、天武天皇がその地を通過した際の対応も指示していたことであろう。だからこそ吾城の屯田の司はこの日天武天皇一行を応接したのである。以降の全ての地において同様の対応が取られたわけではなかろうが、ともあれその最初の地において恭順の意を示されたことは、天武天皇にとって先行きに希望の火を見出した一瞬であっただろうと思う。

<続く>

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