妄想の続きの続き(補)…天武天皇と国栖に関わる伝承の幾つか

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とはいえ、これは天武天皇と国栖の地とのかかわりを語る伝承を信用すれば…という前提付きであろうからそんなに当てにはならない。

とういのが前回の結び。それならば、その伝承の出処は…という話になろう。

ということで、私に目に入った限りのものを今回は紹介してみようと思う。むろん、私の目に入った限り…であるから、これが全てである訳はない。例えば、

国栖くずのあたりでは犬を飼ってはいけない…という話があって、それはなんでも天武天皇がどこぞにお隠れななった際に、犬がそれを怪しんで吠え立てて、天武天皇が危ない目にあった

というところから来ている…なんて伝承もあるのだと云うが、そんな話がどこに書いてあるのか、未だ確認できないでいるしかしながら、こうやって知り得たいくつかをお示しすれば、どなたかが教えてくださるかもしれない。まずはこちらから…ということで、書き始めたい。

まずは天武天皇の吉野脱出のいきさつを、『宇治拾遺物語』から…

その時、大友皇子に人申しけるは、「春宮を吉野山に籠めつるは、虎に羽をつけて、野に放つものなり。同じ宮に据ゑてこそ心のままにせめ」と申しければ、げにもと思して、軍をととのへて、迎へ奉るやうにして殺し奉らんと謀り給ふ。この大友皇子の妻にては、春宮の御女ましければ、父の殺され給はん事を悲しみ給ひて、「いかでこの事告げ申さん」と思しけれど、すべきやうなかりけるに、思ひわび給ひて、鮒の包焼のありける腹に、小さく文を書きて押し入れて奉り給へり。春宮これを御覧じて、さらでだに恐れ思しける事なれば、「さればこそ」とて、急ぎ下種の狩衣、袴を着給ひて藁沓をはきて、宮の人にも知られず、ただ一人山を越えて、北ざまにおはしける程に…

宇治拾遺物語巻15ー1「清見原天皇大友皇子と合戦の事」

なんて話は残っている。この鮒の腹の中に手紙を入れた…なんて話はみなさんもよくご存知の話。が、そこには天武天皇と国栖の関わりは述べられていない。もう少し時代が下ると

吉野国栖とは舞人也。国栖は人の姓也。浄見原の天皇、大伴王子に恐れて吉野の奥に籠り、岩屋の中に忍び御座けるに、国栖の翁、粟の御料にうぐひと云魚を具して、貢御に備へ奉る。朕帝位に上らば、翁と貢御とを召んと被思召けるによりて、大伴の王子を誅し、位に即て召れしより以来、元日の御祝には国栖の翁参て、梧竹に鳳凰の装束を給て舞ふとかや。豊の明の五節にも此翁参て、粟の御料にうぐひの魚を持参して、御祝に進る。殿上より国栖と召るゝの時は、声にて御答を申さず、笛を吹て参るなり。此翁の参らぬには五節始る事なし。斯る目出き様ども、兵革火災に奉らず

源平盛衰記巻25 奏吉野国栖事

と言うのがあって、国栖の地との関わりが描かれている。今回ご紹介した伝承はこのあたりからのものか…とも思う。謡曲の国栖なんかもこのあたりを題材にしてのものなんだろうか?

さらには『和州吉野旧事記』という書物にも『宇治拾遺物語』の「鮒の包焼」と同様の話に続けて

此の夜 宮を出て国栖邑に吟行す。已に大友の兵至る。帝の曰く「朕身を以て之を陰すべき所無し。汝、之を謀れ。」翁凡に非ざると知りて、舟のおおほんを以て、頃刻陰蟄し給ふ。 兵怪しむ 翁悠々とし知らざると為すなり。兵士問ふ 皇子の此こに至るかを。 翁答へて云はく「知らず。 但し、衣冠の人先だつて過ぐ。」と尒に他郷を指さす。軍士まことと為してつひに他村にきてのち、和田山之岩窟に宮居したまふ。翁、粟の飯河の魚を献ず。 此の翁、国栖人の裔なり。

上は、元は漢文のもの表紙から4回ほどクリックするとたどり着ける私が勝手に読み下したもので、細かいところはまるで当てにならないが、大筋はまあ分かっていただけるかと思う。『和州吉野旧事記』はその成立も編者も詳しくはわかってはおらず、どこまで参考にしてよいかはわからない。 「源平盛衰記」よりも前のものなのか、後のものなのか…それも私にはわからない。

以上が、今回私が知り得た天武天皇と吉野の国栖後との関わりについて触れた伝承ではあるが、先にも述べたように他にいくつも似たような話があるのかもしれない。知っている方がいらっしゃったらどうかお教えいただきたいと思う。

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