楽しかった万葉ウオーキングからはもう一月たった。あれほどしっかり聞いて、なるほどと思った先生方のお話もそろそろ忘れかけている。だからこそ、こうやって書き留めねば…と思ってこのような駄文を弄しているのだが、書いてゆくペースが忘れてゆくペースに追いつかない。誠に恥ずかしい話ではあるが寄る年波には勝てない。
ここから先のコースは以前…確か2014年…恒例の萬葉学会の1日旅行とまったく一緒でもあり、講師の先生もそれぞれの担当場所をお変えにはなっていらっしゃるがほぼ一緒…ということもあり、当然のことながらお話も重なる部分も多い。加えて、気が付けば12月もほぼ半ば過ぎ、今年あったことは今年中に…と思うならば、そろそろ今回の第2回万葉ウオーキングについてはけりをつけておかなければならない。
ということで、時間節約のため大筋については、前回の記事からの借用し、今回のウオーキングで知ったこと、気づいたことのみ新たに記してゆきたいと思う。
石上市神社である。
石上の集落の中央に位置するこのお社の祭神は少名彦名命、あの大国主神の国造りのパートナーである。平尾天満宮ともしているが、それはこのお社がもとはその東方にある平尾山にあったと伝えられていることに由来する。延喜式には神名帳山辺郡の「石上市神社」とあるが、元要記(平安時代とも鎌倉時代とも)には「石上市本神社」とある。日本書紀顕宗天皇即位前紀に
石の上 布留の神椙 本伐り 末截い 市辺の宮に 天下治めたまひし 天 万 国 押 磐 尊の 御裔僕ま 是なり
とある。その歌中に「市辺」とあることから、古代においてこの地に市があったと推定される。また、続日本紀延暦8年10月17日にある「石上衢」が市の中心であったと推定される。衢は竜田道と上ツ道が交差する天理市櫟本付近が推定されている。近代に入っての大和の地志、大和志料(大正年間)には石上市本神社が正しい社名として、櫟本町治道宮(和爾下神社)を比定している。
今読み返してみると、いささか「???」のところもあり書き直したくもなるのだが、それをし始めるときりがない。「???」な部分には目をつぶって先へと進む。上の一節は前回の一日旅行に際していただいた資料を一部改変してお届けしたものだが、今回はその説明に加えて以下のような資料が紹介されてあった。
在原寺縁起によると第五十一代平城天皇の皇子阿保親王は石上の在原の地に住まわれ、承和二年(西紀八三五年)に平尾山にあった補陀落山光明寺を在原の地に移して創建しその本尊十一面観音を迎えておまつりしたということである。また親王の子で六歌仙の一人とうたわれた在原業平朝臣は、この石上で生まれ平尾の神の氏子として幼名を平尾丸と名付けられた。
平尾山案内記
平尾山案内記はこの石上市神社の旧社地に今鎮座する姫丸稲荷神社の社伝の横に掲げられた看板の一文らしい。上はその一節であるが、それは次に訪れる場所に関わる一節である。
そしてその場所とは在原寺跡。
現在の在原神社境内にあったとされるこの寺は、その境内への入り口の上の石標にその名残を示すのみである。「大和名所図会」にに描かれた絵図にその往時の姿が髣髴されるが、今は見る影もない。
寺は明治初年に廃され、阿保親王と在原業平を祀る在原神社として現在に至る。この寺の縁起(和州在原寺縁起)によれば、石上の平尾山にある本光明寺(光明皇后の開基)の観音を信心して業平が生まれたので、阿保親王が承和2年(835)に寺を櫟本に移し、名を在原寺に改めたのがその始まりとされている。玉葉集にも、従三位為子の作として、
初瀬にまうでけるついでに在原寺をみてよみ侍りける
かたばかり 其なごりとて ありはらの 昔の跡を 見るもなつかし
とあり、鎌倉期にはこの寺が成立していたことが分かる。
また芭蕉の猿雖(芭蕉の門人 窪田猿雖、通称は惣七)宛の芭蕉の書簡に「石の上在原寺、井筒の井の深草生たるなど尋て、布留の社に詣、神杉など拝みて・・・」とあり、芭蕉もこの地を訪れていたことが知られる。この書簡には貞亨5年4月25日との日付があり、この日付から推察するに笈の小文の執筆の元になった旅の折のことであろうと思われる。
この寺跡とのかかわりは少々はかりかねるところがあるが、芭蕉の句碑がその境内の片隅にひっそりと立っていた。
さて・・・今はすっかりとさびれた古社の境内には・・・他にも興味深いものがいくつか残されている。
在原業平が祀られているこのお社に井戸・・・とあれば、多くの方は次の一文を思い出されるかもしれない。
むかし、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでてあそびけるを、おとなになりければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども聞かでなむありける。さて、この隣の男のもとよりかくなむ。
筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに
女、返し、
くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき
などいひいひて、つひに本意のごとくあひにけり。
伊勢物語
そう・・・誰しもが高校の時に古文で習った、伊勢物語「筒井筒の段」である。この井戸こそは文中にある、筒井筒なのである。
「大和名所図会」には今回新たに実物へのリンクを張った。
さて、年ごろ 経るほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、
「もろともにいふかひなくてあらむやは。」
とて、河内の国、高安の郡に、行き通ふ所いできにけり。
と続くが、高校でこの話を習ったときにはそんなふうには思わなかったのであるが、大和に暮らすようになってからは、この一節を読み返すたびにどうしても首をかしげざるを得ない。「何で…わざわざ龍田山を越えて高安まで行くの?」という疑問である。いくら魅力的な女がそこにいたとしても、夜な夜な通うにしてはあまりに遠すぎはしないか。
そこで影山先生のお話。
先生は近世あたりまでは伊勢物語の主人公は在原業平であるとの考えが持たれていたとの説明をなさってから…
この在原神社から北にほどないところに東西にまっすぐに伸びている道がある。龍田道である。この道をまっすぐに西に進み、斑鳩あたりからちょいと南にそれれば大和川が奈良盆地から大阪平野へと注ぐ…そんな谷間に達する。ここで一山越えればそこはもう高安。伊勢物語のこのお話の理解にはこういった地理的な関係は踏まえておかなければならないというのである。
なるほど、その視点はこれまで持ったことはなかったなあ…と感心し、これまでの自分の不明を恥じ入りながらも、それでもちょいと遠すぎるなあと疑問を払拭することはできなかった。以下は、私のしょうもない戯言である。
試みにグーグルマップ先生にこの在原から高安まで徒歩で行くとすれば、どのぐらいかかるのかを聞いてみた。むろん、そこに示されるお答は、古代のそのままの道を想定した計算ではない。それは重々承知の上で聞いてみた。
結果は4時間と30分ほど…往復すれば9時間である。仮に馬を使ったとしても常に馬を疾駆させるわけにはいかないのだから相応の時間がかかることは避けられない。
今とは時代が違うんだと言われても、往復9時間では共に夜を過ごすには無理があると言わざるを得ない。実話じゃあないんだからと言われても、なぜそんなに無理な話を作るのか…なぜ高安の女でなければならないんだ、なんて思ってしまう。
そういえば斑鳩の町に高安って地名はなかったっけ…そこだとしたならちょいと時間は短縮されるなあ…とか、けれども、「河内の国、高安の郡」とはっきり書いてあるしなあ…
ますますわからなくなっているところようやく待ちに待っていたお言葉をいただいた。
「そろそろこの辺りでお昼ご飯にしましょう。」
一行は好き好きな場に腰を下ろし昼食を取り始めた。