「作り話」と史実と…

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何も目新しいことを述べようとしているのではない。文字として記録されたものから、歴史的事実を掘り起こそうとしてしている人ならば、少なからぬ人がそう考えているであろうことを再確認しようとするだけである。

記紀においてイワレヒコと呼ばれた神武天皇をもって初代とする理由や、とりわけここでとりあげようとする『日本書紀』の鳥見山の霊畤を語ることをいとも簡単に史実でないとしてしりぞけてしまっては、記紀の目指した「歴史」の意味を拾い上げることなく、いつまでも歴史にとって無用の存在としての位置しか与えられない。

「古代王権論と文芸社の射程」「日本研究」:国際日本文化研究センター紀要 16巻(1997)

以前我がブログ文中に引用した千田稔氏のお言葉である。ご存じのように古事記、日本書紀の中には少なからず歴史的事実とは到底考え得ない記述が見受けられる。それらの記述はあまたの口承伝承を踏まえ、歴史的なある時期に文字として書き記されたものであるが、繰り返される口承の中で、あるいは文字化する段階で、そこにその主体者の思いが添加されることは避けられないことであろう。そして、その添加される思いが多ければ多いほど、伝えられる話は事実と乖離し、「作り話」となる。「作り話」は事実ではない故、「いとも簡単に」考える意味のない「史実でないとしてしりぞけ」られてしまうことが少なからずある。

しかしながら私の興味は…作り話ならば、なぜその作り話が作られ…、語られ…ねばならなかったのかという点にある。その作業こそが古事記・日本書紀を遺した人々の、そしてそれと同時代を生きた人々の歴史認識、ひいてはその心の奥底に迫ってゆくに有効な手段になってくれるのだと思うからだ。

たしか大学に入って間もないの頃だったかと思う。無学で恥も知らなかった私は古事記の中のある一節についてとある先生だったか先輩にちょっと記憶が定かではない。おるいは他の立場の人だったかもしれない。、「歴史的にはここ…どういうことなんでしょうねえ。」と質問したとき、もともと作り話なんだからそこから歴史的な事実を考えようがない…というような内容の返しがあった。確かにそうなんだけど…確かにそうなんだけど私の聞きたかったことはそんなことじゃあないとも思ったのは確かである。

そしてその思いを形のあるものとしてはっきりと認識させてくれたのが、大学の2年生だったか3年生だったかの近代文学の演習の時間である。私は森鴎外の「阿部一族」についての報告を課せられた。ご存じの通り「阿部一族」江戸初期、肥後藩において実際にあった事件を小説化したもの。阿部家と親交のあった栖本又七郎などの証言を元にした「阿部茶事談」という記録を下敷きに森鴎外が小説化したものであるとされている。松本清張によって「阿部一族」は「阿部茶事談」を現代語訳しただけのものであり、鴎外の思想などは一切感じられないなどと評されているこの作品「両像・森鴎外」(「文藝春秋」1985年5 – 10・12月号)ではあるが、私にはこの二つの書の間に微妙ではあるが食い違いがあることを感じ、そこにいかなる鴎外の意図があるのか…そんなことを報告したような記憶がある。

この時のことだ。その食い違いにこそ、記録者の思いが込められているのだと感じたのは…

何も作られた話の中から、歴史的な事実を立ち上げようというのではない。けれども、記録者たちが歴史として書きとめようとした事柄は、あくまで記録者にとっては歴史的な真実であったのだろうと思う。むろん、ここでいう歴史的真実とは実際にあったことだと記録者が認識していたかだけを示すものではない。記録者が実際にそうだったはずだ、そうでなければならないと考えた事柄をも含む。私が知りたいのは…その記録者がそうだったはずだ、そうでなければならない…とした理由である。

例えば…ニニギノミコトが天下ったのが日向でなければならなかったのか…

例えば…一度大和への侵入に失敗した神武天皇の一行が再上陸したのが熊野でなければならなかったのか

例えば…神武天皇が都を築いたのはなぜ「橿原」でなければならなかったのか…

例えば…例えば…

無論それらの私の疑問にかかわっては、すでにどなたかがきちんとした考察がなされていること多々あるだろうとは思う。けれども、勉強不足の私ゆえ、それらの多くを私は目にしてはいない。これから先、どんな考えに触れることができるのか…楽しみなことではある。

とともに、それまでは私なりの勝手な妄想をここにお示しすることもあるだろうこと平にご容赦願いたい。

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