鳥見霊畤の所在について…そろそろ終わりかな?

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5回にわたって、『日本書紀』神武天皇4年に「鳥見霊畤とみのまつりのには」の所在についてくどくどしく述べてきた。まあ、はっきりとは言っていないが、なんとなく結論めいたところへは前回たどり着けたようには思う。

早川芳枝氏の「『建国の聖地』比定運動に見る統合と分裂ー鳥見霊畤の顕彰運動を一例に」(東洋大学『東洋通信』201…
ただやはり、その桜井市外山の鳥見山の周辺には「榛原」という地名が見当たらないことが同もひっかかる。そこで、あれこれ調べてみたが、その3で紹介した 谷 代官所 手代 辻市三郎の手記に示された二人の証言ぐらいしか見当たらない。

この邊は一體に榛の木原にて今之様なる物ニ而ハなし

塩屋庄五郎の言

榛之木原に間違なかるへし 榛原とゆう字残れり 今誤而榛分けと云うへり 其證據ニ者榛り分けニ居りし家ハ榛原と云う苗字ありて二三ありしなり 當村ニもあれハ近頃上之宮村へ移轉せし者も榛原氏なり

岡本桃里の言

しかしながら、仮にこの二人の言が確かにそうであったとして、それはこの一帯が江戸時代末期江戸時代末を遡るある時期に榛の原であったことを示すだけであって、それが神武天皇の御代にまでさかのぼった事実である確証は全くないまあ遡りようのない過去ではあるが…

そこで…ちょいと便利なツールに頼ってみた。奈良女子大学古代学学術研究センターの手になる「小字データベース」である。

すると、かつて忍坂おしさか山と呼ばれてい外鎌とがまを南北に貫き、朝倉台の住宅街の真ん中を走る道の粟原おうばら川に突き当たる辺りに「ハリ谷」という地名が見える。しかしながら、そこの地形はあくまでも「谷」であり、「原」と言えるような場所ではない。それにどうも「ハリ」は「榛」ではなくて「墾り」のような気がしてならない。すなわち「切り開いた」の意味である。

信濃路は 今の墾り道 刈株かりばねに 足踏ましむな くつはけわが背

信濃路は、新しく開墾したばかりの道で、切り株を馬の足で踏ませてはいけません、馬に靴を履かせなさい、あなた・・・

萬葉集十四・3399

他にも、例えば都祁の方に「針」、多武峰の方に「針道」なんて地名があるが、これも「墾り」と解した方が、その地名のいわれは理解しやすい…そういえば待てよ…そうなると鳥見山にあったという「上小野榛原 下小野榛原」の「榛 (ハリ)」だって怪しくなってきたぞ…頭がこんがらがってきた。

てなことばかり考えていたら先日私は妙なことを思いだした。

それはたぶん私が卒業論文を書いていたころいや大学を出て間もないころかもしれない、記憶上の服装からすれば季節は夏、場所は天理図書館の閲覧室である。一人の大学の先輩に出会った。この先輩は私が1年生の時の4年生だったから、ほんの1年しかお世話になっていないのだが、同じ萬葉輪講であったのでそのかかわりは深く、先輩もこちらのことをよく覚えておいてくださった。先輩は我が母校を卒業後、伊勢の方の大学の大学院で学びを深めておられた。

「ご承知の通り図書館では他ほかの人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかない『こころ』夏目漱石」ので、ごくごく小さな声で先輩の方から「よお」と声をかけてくださった。ごくごく小さな声で「お久しぶりです…」というようなことを言ったかと思う。会話はさらに続いた。閲覧室でそのまま会話を続けるのも周囲に気兼ねをする…というよりは迷惑をかけるので休憩室に移動したかもしれない。

「今日はなんでこんなところに…」私はバカなことを聞いた。大学院で学びを続けている先輩が図書館にいるのだから、勉強に決まっているではないか。すると先輩は「ちょいと調べ物をしていてなあ、実はこの秋ぐらいまでに一つ書かないといけないんや」とおっしゃった。そして「なあ、三友亭、自分関西では「お前」の意味で「自分」ということが多い桜井に『トビ』というところがあるの知っている? 外の山って書いて「トビ」って訓むんよ」と私に問うた。今ならば奈良での生活も40年を越え、おまけに桜井市に住んでいるので「良~く知ってますよ」と答えるところだが、当時の私は私はあやふやな記憶をもとに「なんか聞いたことがあります。」と答えただけだった。すると先輩は続ける。「そんでな、実は今この歌をやっててな…」

いもが目を 始見の崎の 秋萩は この月ごろは 散りこすなゆめ

萬葉集巻八・1560

と、注釈書の該当ページを見せてくださった。「そんでな、この『始見の崎』ってのが桜井の外山ってところにあるらしいんやけど・・・鳥見山って山があってな、その鳥見山ってのが榛原の方にもあってな・・・説が分かれているんや」と、その時取り組んでおられる課題について惜しげもなく教えてくださった。まさしく今回私が考えてきたことである。

となると、先輩のことだからきちんとその成果は出しているはず…と思ってちょいと調べてみた。

万葉集巻第八、一五六〇番歌「始見之埼」について

大島信夫

『皇学館論叢18-51985/10

がたぶんそうだと思う。時期的に考えても、扱った素材を考えてもほぼ間違いないと思う。

「思う」と頼りないことを書いているのは、まだこの論文を読んでいないからである。地元の小さな図書館には 『皇学館論叢』はおいてない。母校の大学図書館に行けばあるはずなのだが、なかなか時間が取れない。そこで「万葉集主要論文所収歌句データベース」のお世話になる。

そこには

1560番歌の第2句「始見之埼」については、その本文や訓については諸説がある。本文について、「跡見」(トミ)や「始兄」(ハツセ)などの誤字説がある。また本文「始見」とするものも、ミソメやハツミなど、説の分かれるところである。本文については、写本に異同のないところから、誤写の可能性はきわめて低く、本文「始見」とすべきことを説いた。さらに、訓についてもハツミとすべきことを述べた。また、比定地の問題についても触れ、「跡見の田庄」を桜井市外山付近に、「始見之埼」については、一案として慈恩寺の西、金屋の東付近とする説を出した。”

と当該の論文の概略を簡単に説明してくださってある。概略からだけだから、大島先輩ここからは実名ですは「鳥見霊畤」について触れていたかどうかはよくわからない。上記概略から読み取れるのは「跡見の田庄」が桜井市外山付近だと結論付けたことだけだ。

どのような考察を経てこの結論に至ったのか、あるいは「鳥見霊畤」については触れたのか、知りたいところだが、今は何ともしえない。どこからか取り寄せようかなんて考えたりもしたが、そんな時代に学問をしていたわけではないし、なにせ使っていた図書館が図書館である故他所から取り寄せる必要がほとんど必要なかったせいで、論文の取り寄せをどうすればいいかよくわからない。やはり、時間を作って図書館に行こうか…なんて思っていたら、こんな情報を耳にした。

なあんだ、大島先輩に会えるじゃないか、その時聞けばいいや…と思う三友亭であった。

それにしても、なかなか贅沢な顔ぶれだなあ…ということで、今回でもこの一連の流れを止めることができなかった。ここまで、どちらかと言えば人様のおっしゃることを私なりに理解して、それを皆様にお伝えすることに終始してきた。

なので、次回はその作業を通じ私なりに考えたことを少々述べたいと思う。

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