までに

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今回の標題を見て、なんのことかを即座に理解できた方は、まあほとんどいらっしゃらないと思う。もし「ははあん」と思われた方がいるとしたら、その方は我が郷里宮城の出身か福島あたりの出身だと思う。

「までに」とはその地方で、「ていねいに」を意味する方言である。

なぜこんなことを急に言いだしたかというと、テレビを見ていたら、福島の方と思われるその出演者がこの言葉を使っているのを聞いたからである。長く郷里を離れている私はふと啄木がそうであったかのように、「ふるさとのなまり懐かし・・・」なんて気分になったのである。

そしてそれと同時に万葉集を学び始めた頃の一つのエピソードを思い出した。

それは、大学に入り万葉集を学びはじめた頃のことである。以前も述べたように私が所属していた万葉集の研究会…万葉輪講…では、学びはじめの1年生に3年生あたりの先輩が万葉集の訓み方についての基本を手ほどきするのが習いとなっていた。そしてその時私も2学年先輩に万葉集総索引の使い方とか万葉集校本の便利さを教わっていた。

そんな合間に万葉集を読み解くために先人たちがいかに苦心していたかを、その先輩は話してくださった。今から話すのはそんな中の一つである。

康保のころ、広幡ひろはたの御息所の申させたまひけるによりて、源順みなもとのしたごう勅を承りて、万葉集を和らげて点じはべりけるに、訓み解かれぬ所々多くて、当寺に祈り申さむとて参りにけり。左右といふ文字の訓みをさとらずして、下向の道すがら、案じもて行くほどに、大津の浦にて物負せたる馬に行きあひたりけるが、口付の翁、左右の手にて負せたるものを押し直すとて、己がどち、までより。といふことを言ひけるに、始めてこの心をさとりはべりけるとぞ

石山寺縁起巻二の四段である。「康保のころ」というから、900年代も後半に入った頃のことである。村上天皇の更衣広幡の更衣の依頼により源順は村上天皇の勅命を承った。万葉集の訓み解きを命じられたのである。御存知の通り万葉集は漢字ばかりで書かれている。万葉集の編纂された奈良時代はまだひらがながなかったのだから仕方がない。けれどもそんな万葉集は平安の御代に入り、すでに訓めないものとなっていた。そこで和歌にご執心であった村上天皇はその訓み解きを源順をはじめとした梨壺の五人に命じたのである。けれども事は容易ではなかったそりゃあそうだよね。そんでもって源順は石山寺の功徳にすがろうとしてお参りに出かけた。

その帰りのことである。その頃、順が突き当たっていた壁は、「左右」とある部分をどう読むかであった。こう行っただけではなんのことかわからないであろうから一つ実例をあげてみよう。

吉野川巌と栢と常磐なす我れは通はむ万代左右二

万葉集巻七・1134

この「左右」という用字は他にもいくつか見られ、

白波の 浜松が枝の 手向草 幾代左右にか 年の経ぬらむ

万葉集巻一・34

御立たしの  嶋をも家と  住む鳥も 荒びな行きそ 年替はる左右

万葉集巻二・180

この、「左右」をどう訓めばいいのか…順は考え考えしながら馬を進ませていたかどうか確かなことはわからないが石山寺縁起に添えられた絵にはそのように描いてある

そんなおりのことである。大津の浦で荷物を背負わせた馬に出会った。馬の手綱を取っていた棟梁かと思われる老人が、左右の手で背負わせた荷物を押し直しながら、供の者に「まてより」というのを聞いて…

…順は「左右」の手…すなわち両の手を、「まで」といったのだと理解した。左手、あるいは右手、のどちらか一方のみの手を「かた(不完全な)」手というのに対し、両方の手のことを「ま(完全な)」手と言うのだと悟ったのだ。

そして…順は、「左右」を「まで」と訓むことを思いついた。

こんな話を先輩はしてくださった。この話を聞いたとき私はふと思い当たつことがあった。小さい頃から何かと雑な性格の私に大人たちはよく「までにやれ」といった。あの、「までに」とはこのことではないのか…片手で雑に物事を済まそうとするのではなく、両手で「ていねいに」ものごとに当たれということだったのだと。

そんなことを思いついた私は一人悦に入っていた。


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コメント

  1. 玉村の源さん より:

     方言に古語が残った例として貴重ですね。
     しかも、万葉集の難訓とも重なる点がさらに貴重です。
     楽しいです。

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