昨朝の冷え込みは、今冬最も甚しきものであった。職に赴く途上、目的地に程近きあたりにて、ふと車中の寒暖計に目を落とせば、指標は「零下八度」を示している。余は聊か怪しみ、瞳を凝らして再視したるも、その数字に些かの動揺もなし。
顧みるに、我が愛車の寒暖計は、平素より実温より二度ほど高く現れるを常とする。これを以て換算すれば、真の気温は零下十度に達していたるべし。正に今年一番の酷寒なり。
いきなり堅苦しい書き出しに驚かれたことだろうと思う。そしてまた、これは一度どこかで読んだような気がすると思われた方も少し入るかもしれない。
何のことはない。前回書いたものを少々書き換えた…ではない。最近私が遊びでAIなるものに親しんでいることをお話したが、これもその一環である。
ほんのいたずら心で前回書いたものをとある文豪風に書き換えてみろと指示し、書かせたものである。参考に前回私の書いたものを示す。
昨日の朝はこの一番の冷え込みだった。
通勤の途中、職場が近くなったあたりで、ふと自動車の温度計を見ると「ー8」と出ている。びっくりして目を凝らしてみても「−8」のままである。私の自動車の温度計はだいたい実際の気温よりも2度ほど高く出る傾向があることを換算するとマイナス10度ということになる。今年一番の冷え込みである。
文の中身はほぼ変わりはない。これをとある文豪風にと指示したらこのように書き換えたのだ。その文豪とは…もうお気づきであろうと思うが、森鴎外である。
鴎外の文章をそれほど読み込んでいない私がかくいうのも心苦しいが、それっぽい文になっているなあとは思う。鴎外にお詳しい方が読まれたならばどうお感じになるか興味深い。
ということで調子に乗った私はそれではほかの作家たちならばどうなるかということを試してみたくなった。次は同じく明治の文豪夏目漱石である。
昨日の朝の冷え込みといったら、これはもう、ただ事ではない。
勤め先へ向かう道すがら、職場まであと一息というところで、ふと自動車の温度計に目をやって、私は思わず「おや」と声を上げそうになった。そこに映し出された数字は、あろうことか「マイナス八度」である。わが目を疑うというのは、ああいう時のことを云うのだろう。私はわざわざ眼鏡の位置を直して、穴のあくほど見つめてみたが、やはり無慈悲な「-8」の二文字が、平然と居座っているばかりであった。
ところが、わが愛車の温度計というやつは、どうも世間様にいい顔をしたいのか、実際の気温より二度ほどおまけをして、高めに出る癖がある。それを勘定に入れれば、正味のところはマイナス十度ということになる。なるほど、道理で鼻の先が凍てつくはずだ。今年一番の、これ以上はないという酷寒である。
森鴎外のそれよりはだいぶくだけている。これまた明治文学に疎い私が言うのもなんだが、漱石は鴎外よりは少しは読み込んでいる。AIは漱石としては早いころの作品を参考にしているのではないかと感じた。
続いては時代がぐっと下って昭和の頃。これはだいぶくだけてくる。
昨日の朝のあの冷え込みは、もう、いけません。絶望的でした。
職場へ向かう、その心細い道すがらのことです。ふと、自動車のパネルに灯)っている温度計を覗いて、私は危うくハンドルを握る手を滑らせるところでした。「-8」と、そこに書いてあるのです。嘘だ、そんな筈はない。私は、まるで世の中に裏切られたような心地で、あきらめきれずに、何度も、何度も、眼を皿のようにしてその数字を凝視しました。けれども、数字というものは残酷です。やはり「-8」のまま、平然と私を嘲笑っているではありませんか。
そもそも、私の自動車の温度計という代物は、どうにも見栄坊なところがありまして、実際の気温よりいつも二度ばかり高く、景気よく表示する癖があるのです。それを勘定に入れますと、つまり、本当のところはマイナス十度ということになります。ああ、マイナス十度! 今年一番の、これはもう、人間の住む世界ではありません。
太宰の作品もこれまたあまり読み込めてはいない私ではあるが、いくらかは読んだ彼の作品にも「私の自動車の温度計という代物は、どうにも見栄坊なところがありまして」なんて言い回しはあったような気がする。
続いて…近現代の作家ではもっともその作品を読み込んでいる高橋和巳とは言ってもその読みの深さはたかが知れているが。
昨朝の寒気は、今冬の推移において、蓋し、極点に達するものであった。
職という名の制度的空間へ向かう途次、目的地たる宇陀の山域に近づくにつれ、車内の計器が示す「-8」という形象は、一個の無機的な断罪として私の眼前に提示された。視覚の錯誤を疑い、数次にわたりその数値を凝視したが、計器の指針は冷徹な不動性を保ち、私の狼狽を峻拒するばかりである。
顧みれば、この計器には実温より二度ほど過大に算出する構造的な偏倚が内在している。客観的な換算を施せば、真実の気温は零下十度という、生物的生存を危うくする絶対的な閾に達していたと言わねばならぬ。正に今年一番の、峻烈極まりない寒冷の位相である。
やたら難しい漢字が並び、そんでもって見たこともないような漢語が並んで、中国文学の研究者でもあった高橋和巳っぽい雰囲気を醸し出している。また「形象」という漢語に「イマージュ」なんてフリガナをつけていることや、そんなに大した内容でもないのにやたら難しく堅苦しい言い回しになっているのも高橋和巳らしいといえば高橋和巳らしい。
が、やはりちょいと変だ。どこがどうだといわれても「変だ。」としか言えないのがもどかしいのであるが、これは私の力量だとあきらめるしかない。
AIなどという人工知能でこんなことをして楽しむことについて、おそらく以前の私ならば嫌悪の情を抱いていただろうと思う。本来、人という存在の専売的行為であるべき「創造」想像という機械に任せてしまうということはあまり快く感じることではない。そしてある種の危険性すら感じるいろいろな意味で。
が、最近こう思うようになった。
何もAIは「創造」という行為を行っているわけではない。インターネット上にあふれる様々な知を収集し整理し直しているに過ぎない。だからそんなに堅苦しく考えるほどのことじゃあないのではないかと。それぐらいのことならば機械に任せてもさほど問題はないじゃあないか。
てなふうに考えていたら次のような思いもよぎった。
AIがネット上の様々な知を収集し整理するだけだと考えるとすれば、人の行っている「創造」という作業もこれとどこが異なるのだろうかと。
我々が行っている「創造」という行為は、何の土台もなしに行われるものではない。其れまでの個々人の経験や読書、その他もろもろの地の集積があって初めて成り立つ。そしてそれが一つの方向に向かって整理統合されてゆく過程を「創造」とよぶ。
これは、AIが行っている作業と全く同じではないか…
話が堂々巡りになってきた…
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