長々と続いている第9回万票ウオーキングのレポートであるが、開催された3月23日から間もなく2ヶ月が経とうとしている。今日中に何とか最終目的地にたどりつくことができそうだ。前回の最後に紹介した忍坂坐生根神社からほんの少し南に下り、左に折れて山側への坂道を登り始める。ちょいと異様なものが目に入る。
神籠石である。地元の人達がちご石と呼ぶこの巨石は、神武東征の時、宇陀より神武天皇が大和平野に進出しようとした際に、この地にいた八十建を討とうとした時、この石に隠れ、石垣をめぐらし楯としたという伝えが古書にあるのだといろんなサイトに書いてある。どうもその情報源は桜井市の観光協会のものであるようだが、その「古書」とは何なのか私にはわからない。
写真では岩の背後に柱が2本とその上部に釣り鐘がぶら下がっていることが確認されると思うが、これはもちろん古代からの構造物ではなく、近代のそれである。なんでも前回紹介した忍坂坐生根神社から戦後になって移設したものらしい。
坂道はさらに外鎌山…忍坂山の上部へと続く。そして見えてくるのが段ノ塚古墳…舒明天皇陵である。
御覧の通り、よく整備されている美しい御陵である。
御陵の傍らには上のような図が示されている、この御陵が山の斜面を利用してこの図のように作られていることを教えてくれている。
この日はじめにいただいた資料には、
後背部を切断し左右を尾根が囲ういわゆる「三方山囲み」の立地に造られ、南斜面を台形状に名前の由来にもなった三段築成の方形壇の上に、平面が八角形で二段築成の墳丘を造っている。全体の大きさは南北で約八〇m、東西で約一一〇mで、八角墳丘部の対辺間の距離は約四二m、高さは約一二一mで、当時としては最大級の規模を誇る。
さらに資料の説明には八角墳について以下のような説明がある。
この段塚古墳を始まりとして、京都山科の天智陵、明日香村野口の天武・持続陵、また文武天皇陵と推定されている明日香村中尾山古墳まで八角墳が作られている。舒明の皇統に至り、天皇陵の形式が従来の方墳から八角形墳に変化したことは注目されている。
なお、これはもうかなり…40年以上も前に聞いた話なので定かであるかどうか自身はないのだが…それは兵庫県にある園田女子大学で萬葉学会があった際の講演会で、かの高松塚古墳の発掘で有名な網干善教氏の講演があった。演題やそのお話の全体についてはほとんど記憶はないのだが、そのお話の中で万葉集でよく用いられる、「やすみしし」という枕詞についてのお話があった。枕詞、「やすみしし」は日本国語大辞典に、
国の隅々まで知らす(治める)意、または、安らかに知ろしめす意から、「我が大君」およびその変形である「我ご大君」にかかる。
とあり、その補助注記に、
挙例の「万葉集」の表記からは「八隅を治める」の意が考えられるが、この表記は当時の解釈を示したものと見るべきで、原義は確かでない。なお、八方を統べ治めるという考えは中国伝来のもので、「八隅」の表記は中国の影響を受けたものかという。
とある。氏はそのお話の中で八角墳はこの「八隅」と関わりあるのではないかというようなことを仰っておられた…ような気がする。
ところで、舒明天皇の御陵は…実ははじめからこの場所にあったわけではない。日本書紀の皇極天皇元年(六四二) 十二月条に
壬寅(二十一日)に、息長足日広額天皇舒明天皇を滑谷岡に葬りまつる。是の日に、天皇、小墾田宮に遷移りたまふ。
※ 小字は三友亭が勝手に施したもの。以下同。
そして同じく皇極天皇二年九月条に、
九月の丁丑の朔にして壬午六日に、息長足日広額天皇を押坂陵に葬りまつる。
とあることによれば、舒明天皇陵は初め滑谷岡というところに築かれ、後に今の場所に移送されたことになる。そして2015年1月16日の奈良県立橿原考古学研究所は奈良県明日香村の小山田遺跡で飛鳥時代最大級の巨大方墳が見つかったと発表する。その規模が石舞台古墳を上回る規模であることや日本書紀の記述などから、当研究所は、舒明天皇が最初に葬られた墓と考えられるが、蘇我蝦夷の大陵や苑池などの古墳以外の可能性もあるとした。
新聞各紙は猪熊兼勝氏の、
奈良県桜井市の段ノ塚古墳(舒明天皇陵)と石材が同じで積み方もよく似ている。日本書紀に記された、同天皇が最初に葬られた滑谷岡(なめはざまのおか)の墓だった可能性がある
とのコメントを紹介した。
以上、網干氏のおはなし以降の部分は私のおぼつかない記憶を辿った部分もかなり含まれていおり、このときの先生方のお話も歩いた日から2ヶ月近くも経ち定かではなくなった今、どこまでがこの日の講師の先生方のお話だったのか、どこまでが私のおぼつかないそれなのか区別もつかなくなっている。だから、大きな間違いがあったとすればその席はすべて私三友亭主人にあることお断りしておく。
そして閉会の挨拶。坂本先生のそのご挨拶の中で次回の予定について触れられた。11月15日(土)に明日香を歩くのだそうな。そんでもってこの萬葉ウオークも10回目になるということで歩いた後にお楽しみを考えているということだ。
これは今から楽しみにしておくしかない…と、ここで終わるはずだったが、ここからは番外編として舒明天皇陵のある場所からさらに数百m奥に入ったところにある鏡女王の御陵にも足を運ぶことになった。もちろん終わりの挨拶をして解散した後であるから、参加は望まれる方のみ…ということだったが、そこで帰ってしまうような方はこの催しには参加していない。みなさんがぞろぞろと鏡女王の御陵へ夜向かった。途中の道端にあったのがこれ。
鏡王女は本居宣長の玉勝間以来、額田王の姉と考えられてきたが、その御陵が舒明天皇の陵域内に存することから、舒明天皇の皇孫と考えられる。藤原鎌足の嫡室であり、鎌足の病気平癒を祈って、山階寺興福寺の前身を建立したと伝える。
歌碑は舒明天皇陵から鏡王女の御陵へ向かう途中の道の傍らのせせらぎの辺に実にささやかに置かれてあった。
秋山の木の下隠り行く水のわれこそ増さめ思ほすよりは
と彫り込まれている。万葉集巻の二、92番歌である。これは天智天皇の、
妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを
万葉集一/91
に奉和した歌であるが、この2首のやり取りについて、ことに鏡王女の奉和歌の見事さについての影山先生のお話は実に軽妙であり、かつ洒脱。実に楽しお話ではあったが、これを我が貧しき筆で伝えることはちょっと無理があるので省略。
そして一同は先ほど休憩を取った大和朝倉駅へとの帰途についた。
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